DNA
「SEBASTIAN X」というバンドがある。
2015年の4月に活動中止しているのだが、僕はその活動中止のニュースを聞いた後に聞き出して好きになったのだ。それまでは、名前だけ知っているバンドだった。
で、その時、バンド活動休止の報を受けて初めて聞いたのがこれだ。
マジで後悔した。こんなにいいと思ってなかった。
ベースとドラムに対してボーカルが伸びやかに映える。かと思えばボーカルは時にキーボードと重なって、別の楽器のようにも聞こえる。音の組み合わせがいい。すごく心地良い。
そして言葉遣いがいい。女性らしい自己の表現も感じさせつつ、とても大らかである。JUDY AND MARYのような少女らしさも、椎名林檎のような強さや鋭さも備えながら、最終的に大らかさが包み込んでいるのがとてもおもしろい。
さらに歌い方もいい。同じメロディでも歌い方を微妙に変えて、記憶に残るようになっている。聞きながら歌い方を真似すると(中年男性だけど)大変気持ちいい。伸びやかなボーカルは、たまに和田アキ子に聞こえるほどである(褒めてます)。
問題は、なぜそれほど売れなかったのかだ(余計なお世話である)。
僕はバンドが活動していた時に注目していたわけではないので、その理由は推測することしかできない。実際はそこそこ売れていたのかもしれない。しかし、youtubeの視聴回数などを見ると、爆発的にヒットしたわけではなさそうだ。
なんでだろう。「DNA」なんて、しかるべきCMに起用されたら売れそうなのに。ポカリとか。
最初に思いついたのは、スマートに聞こえないから。
SEKAI NO OWARIはスマートである。EDM、かっこよくて気持ちいよね。若干内にこもったような感じがするけれど、SEKAI NO OWARIには地面から5センチだけ浮いて歩いているようなかっこよさがある。瞳孔開きっぱなしでファンタジーの世界に行っちゃうような、飛び抜けたトラベル性能を持っている。
対してSEBASTIAN Xは、土着のものである。
主にボーカルの永原真夏の資質によるところが大きいのだろう。たとえるなら地母神的な、祭りのリズムのような、暗くて禍々しく、しかし華やかで大らかな、みぞおちにグッと来る何かを感じる。たぶんその自覚があるから「スーダラ節」をカヴァーしたのだと思う。
そうするとSEBASTIAN Xは、ギターレスでキーボードがメロディの一翼を担うポップなサウンドでありながら、根底がポップでないという特性を持っているのだと気づく。そしてその特性こそが、僕がすごくおもしろいと感じた部分なのだろう。
しかしそれは、今の時代が求めているものとは少し違ったのかもしれない。
ちなみに僕が好んで聞いてきた音楽は、主に日本のロックと中島みゆきである。世代的には、ミッシェルとかブランキーとかイエローモンキーが当たり前のように売れていたころが20代。バンプとかラッドを聞いて、「こんなに若いのにとんでもない才能が出てきましたなあ」と驚いた世代である。あるのかその世代。
だから、そんな僕の琴線に触れるということは、SEBASTIAN Xの活躍は今ではなかったのかもしれないと、うっすら思う。
数日前、夜中に部屋の灯りを消して、「DNA」「サディスティック・カシオペア」「GO BACK TO MONSTER」を聞いた。
やっぱりだ。
SEBASTIAN Xには暗闇が似合う。
そしてもう一度、なぜこれが売れなかったのか、不思議に思うのである。
とりわけ「DNA」は、ポップと土着的生命力とのせめぎあいが昇華して、一段上の音楽になっている。
間違いない。惜しい。
いや、解散したわけではないけどさ。