批評(ex.goma油)

批評(ex.goma油)

趣味の批評をしてみたいと思いました。

Yさんに捧げる6曲(もしくは今にも死にそうな人のためのミュージックガイド)

 

Yさんという人がいた。

Yさんとは最近連絡を取っていなくて、どうしているのか頭の隅にありつつも、特に連絡を取るでもなく、こちらから消息を調べるわけでもなく、ただ時が過ぎていった。年齢が上がるとどうしてもそう言った友人が多くなるし、他にも何人もそういう友達が増えた。

 

そしたら、Yさんは実はすでに亡くなっていた。

寝耳に水だ。いや、それを知っていた人からすれば、Yさんが亡くなったことは当たり前の事実であり、すでに心も整理できていたかもしれない。

だが僕は知らなかった。それくらいの距離感だった。と、言ってしまえばそれまでだが、それでもやはり知っている人が亡くなるのは悲しいし、知らなかった分普通よりショックを受けた。

 

なぜだ。

もちろんそんな問いに答えはない。空を見上げて考えてみても、出てくるのは「Yさんはもういない」という事実のみである。

 

なので、Yさんのことを思い出しながら音楽を紹介してみたい。

Yさんは音楽がとても好きだったから。

 

 

Yさんに捧げる6曲

(もしくは今にも死にそうな人のためのミュージックガイド) 

 

 

AIR 『YAWN』

現在「Laika Came Back」として活動している車谷浩司が、その一つ前にやっていたソロプロジェクトがAIRである。

『YAWN』は落ち着いたテンポで奏でられる優しいナンバーだが、どこか寂しげだ。

もしも僕がやがて

あくびのふりして涙を浮かべたら

見逃してください

悲しくて涙が出るのだが、僕はそれをあくびのふりでごまかそうとしている。もしそれを見かけても「見逃してください」という歌詞である。

「見逃してください」という言葉は字面ではかなり切迫している。にもかかわらず、内容は他人へのささやかなお願いだ。基本的にはそんなこと(あくびのふり)は、他人も見逃してくれるか、そもそも「ほんとうの涙」であるとは気づかないだろう。

そんな些細なことの、他人への懇願である。

そこには、矮小化された「僕」の自分へのまなざしと、他人への痛いほどのおそれが混在しているのを感じることができる。

 

僕は自分が取るに足らないことを知っている。

しかしそんな僕でも、今は涙を浮かべるほどに悲しい。

だからせめて、他人にはそれを認めてほしい。

しかし直接泣いている姿を見せられないので、せめて「泣いている自分があくびのふりを装っているということ」は認めてほしい。

 

それほどまでに他人への愛を求めている僕の痛みが、じんわりとした疲れの感覚を伴ってしみ込んでくる。

この作品が入ったアルバム『Usual tone of voice』には、似たような感覚を持った『Heavenly』も収録されている。気に入ったらそちらもぜひ。

 

 

Avicii『Levels』

先日亡くなったAviciiから、出世作の『Levels』を。

この記事内で紹介する楽曲は、他のものは全てspotifyのリンクを貼っているんだけど、これだけは別。MVを見た方が良い。

ここにはいわゆるEDMのイメージとは全く異なる絶望と、再生への希望がある。

この音楽が「毎日取りたててしたくもない仕事をしている僕らの絶望と希望」のダンスミュージックであるということは、このMVを見れば一発でわかる。

この繊細さ故に彼が若い命を落とすことになってしまったのなら、それはとても残念なことだと思う。

 

 

ミドリ『愛って悲しいね』

Yさんのことを思い出すとき、僕はまた、それに似た女性を思い出すことができる。現在は解散してしまったバンド、ミドリのボーカル後藤まりこである。

ミドリはおかしなバンドだった。簡単に言うとシンセありのパンクなのだが、だからと言ってPOLYSICSみたいなことではない。いや、衝動性はポリに似ているけれど、もうちょっとウェットな、直截的に言うと少し経血が混じっているような音楽である。

近しいところでは日本マドンナ。しかし、ピアノの音とウッドベースのおかげで相当なリズム感が出ている。という感じなのだが、どうせ聞いた方が早いので音の説明はこの辺りで終わらせる。

で、僕が思い出すYさんも後藤まりこも、どちらも自分の母に似ているために思い出すようなところがある。母に似ているということは、必然、自分にもその資質がある程度受け継がれているわけであり、自分に親しい感じがして正直好きである。

と言うことは、僕はそんな、女性の衝動性に振り回されるのが好きなのだと思う。 

 

 

日食なつこ『神様お願い抑えきれない衝動がいつまでも抑えきれないままでありますように』

衝動と言えば、長い題名でお馴染みの(かどうかは知らないが)この曲。

題名の時点で言いたいことはほぼ言っている。この題名を見た時、僕は「ああ、ここにも同じことを感じている人がいた」と思った。

抑えきれない衝動は、抑えきれないがゆえに自分に害を為すと言う意味で、できれば避けたいと思っている人もいることだろう。

けれど僕たちはまた、衝動を感じている時、その大きさに比例して生きているという実感をも得ることができる。生命力は衝動を生むということを、僕たちは実感として知っている。

だから僕たちは、衝動を抑えるのではなく、どこまでも飛んで行けるような覚醒性の担保として、できるだけ感じていたいのだ。

みたいなことを、僕たち(この項の僕たちという表現は、常にこの感覚を共有できるような僕たちだ)は、この曲の題名の時点で、考える前に腑に落ちている。

題名とは打って変わって、一言一言祈るような調子で歌われるのは、そう言った僕たちの「衝動」への、霊的な信仰であるようにも思う。

  

 

野狐禅『ならば、友よ』

Yさんとは、結局まじめな話はしなかった。

ならば、友よ

死ぬ間際でいいや

君と夢を語り合うのは

死ぬ間際でいいや

と、メロディックシンセサイザーに乗せて歌われる、武骨な歌。

「死ぬ間際」はいつ来るかはわからない。

できることなら、大切な人とは死ぬ前にまじめな話の一つでも、しておいた方がいいのかもしれない。それで悔いが少しでも減るのなら。

 

 

槇原敬之『GREEN DAYS』

僕らの歩んできた道は、間違いなく青春だった。

それじゃあ、またね。