言葉と世界は、人の数だけ存在する
とても残念だ。
どういう番組だったかというと、日本の料理を外国の料理人に作ってもらうという番組だ。例えば「かつ丼」とか「あんまん」とか「福神漬」とか、その料理の名前と3つのヒントだけを提示し、料理を想像してもらって、作ってもらう。それ以外のヒントは一切なし。
例えば、今回のお題は「かきの種」だったのだが、料理人に提示されるのは、
- 「かきの種」とは〈柿の種〉という意味であるが果物の柿は使わない
- お米を使ったおやつ
- ピリっと辛い
の3つだけ。詳しくは再放送を見てほしい(放り投げる姿勢)。
この番組が素晴らしかったのは、(僕の想像だけれど)制作側が料理人に「正解の料理を作ってくれ」と言わなかったことだと思う。
「正解の料理を作ったらえらい」という発想の番組だったら、きっとあの魅力は出てこないだろう。今回の例に当てはめれば、実際の「かきの種」に近いものを作って競う、では、この番組に特別なあの感情は生まれてこないはずだ。
そうではなくて、(これも僕の想像だが)「このヒントからイメージを膨らませて、あなたたちのやり方で料理を作ってみてください」という提示をすることで、日本人の思いもつかないような調理法であったり、素材であったり、異文化の発想を知ることができる。それがたまらなく面白かったのだ。
今回で言えば、バングラデシュのシェフが、米粉を使った皮で野菜や魚を調理したものを包み、蒸したり焼いたりしてその料理はできた。それはつまり餃子に近いものだったのだけれど、その料理を前にシェフが「柿の種みたいだろう?」なんて言うとき、僕らは餃子の形が言われてみれば種に似ていることを「発見」して驚く。
僕たちが考えもしなかっただけで、柿の種は餃子の形ではないか、と考えた人がいる。そしてその考えはきっと、その人たちの文化から生まれたものである。
ああ、これって外国に行ったときに感じるやつだ。
コミュニケーションの面白さって、こういうことなのだ。意味的には同じ言葉を介しているはずなのだけれど、日本人とバングラデシュ人では、そこから湧いてくるイメージの世界が異なっている。そして、違うはずのイメージから、時に全く新しい表現が生まれたり、また逆に似たような表現に行き着いたりする。そんな当たり前のことの「発見」。
この番組を見ていて、時に感動すら覚えるのは、そういったコミュニケーションの本質のようなものに触れているからだろう。
よく考えれば、国に限ったことではない。私と、あなたでも同じことは起こっている。
同じ言葉を使っていても、私とあなたでは、その言葉の持つ広がりは驚くほど違っていて、その行き着く結果としての表現が人によって違い、また似ていたりする。
そんなコミュニケーションの本質のようなものを、とても面白く見せてくれた番組だった。大好きでした。ありがとう。