三四郎の構造について
THE MANZAIで三四郎を見た。
彼らの漫才はそれまで見たことがなくて、1,2回アメトーーークか何かで見ただけの印象しかなかったのだが、漫才を2回見ておもしろいなと思ったので書く。
まずは、ボケとツッコミが逆だと思っていたので意外だった。
三四郎というコンビについては、ほぼ小宮のトークだけが頭に残っていたので、なんかこの嫌な感じしたやつがボケなんだろうと思っていた。とろサーモンみたいに。失礼(失礼なのかどうなのか)。
で、初めて見た漫才は、小宮のぎこちなさが笑いを誘う作りでありながら、しっかりした技術と知性を感じるものだった。
まず驚いたのは、THE MANZAIプレマスターズ(だっけ、本番に出られる3組を決める事前番組)も、THE MANZAI本体も同じネタだったのだけれど、小宮のぎこちなさが同じであるということだ。
ふつう、あのぎこちなさは作れない。
ゆえに、彼の素のものであると考えられる。
だとすると、なかなか「同じぎこちなさ」を再現するのは難しいはずだ。
これがきれいな演技であれば、なぞることはできるかもしれない。
しかし、彼は相当ぎこちないわけなので、その動きづらい身体、しゃべりづらい滑舌を「同じように繰り返す」ことができるというのは、相当すごいことなのではないか。
きっと、めちゃくちゃ練習して洗練した結果なのだと思う。
でなければ、あのぎこちなさで笑いを何度も取ることはできない。中途半端では「ぎこちない素の動きで、たまに笑いを誘う」か、「ぎこちなくなくなって笑いを誘えない」かどっちかになるはずである。
それから、小宮のセリフに特徴的なものがいくつかあるのがうまいと思った。
「著しく売れかけている三四郎です」
「いじり急ぐな!」
「コンビだから笑いのツボが同じはずだろ。だから組んだんだろ。そうであれ!」
(すべてうろ覚えであるが)これらのセリフは、一定の知性を感じるものばかりである。言葉を知らないとこの表現は出てこない。だからきっと、この台本を書いたやつはそれなりに頭がいいはずだ。
ここでポイントになるのは、知性はお笑いにわりと必要だが、知性が出すぎると嫌味になってしまうというところだ。
三四郎における小宮のセリフは、知性を感じさせながらしかし、彼自身のぎこちなさがそれを上回ることによって観客にそれを気づかせないようになっている。
たとえば、ボケの彼(ここに至って、名前を知らなかった)があの明朗な声で同じことを言ったら、スッと流れてしまうだろう。それはもったいない。
そうではなく、小宮にぎこちなく言わせて、観客の心に引っかかりを持たせることで印象に残るようになっているのだ。そして、その印象を小宮のぎこちなさが上回ることで、それはさらにおもしろくなっているのだ。
パッと見は危なっかしい漫才でありながら、たぶんこういった工夫と推敲、練習に支えられているのではないかと感じたんだけど、本当のところはどうなんだろう。
って、書いてから思ったけど、この2本同じ録画の可能性があるな。じゃあ半ば撤回だ(おい)