Anodyneというゲームに見る、ゲームと芸術の話 後編
「ゲームはまだアバンギャルドにすらなっていない」というようなことを言っていたのは確かブルボン小林さんだったと思う。
まずゲームを芸術として捉えることができるという重要なことに気付かされたし、そもそも私たちがゲームから受け取った大切なものの中には、間違いなく芸術から受け取るものと同じ種類のものが含まれていると発見できた。
Anodyneの話だ。
前回、クリアまで7時間弱と書いたが、実は総プレイ時間は17時間を超えている。残りの10時間あまり何をしていたかというと、いわゆる「クリア後の世界」をプレイしていたのだ。
Anodyneのそれは普通じゃなかった。作られ方としては同人ゲームであることを考えても、なお異質に見えるゲーム体験だった。
まずクリアすると、ゲーム世界の仕組みを変えることのできるアイテムが使えるようになる。と言うとあまりピンとこないかもしれないのでもう少し詳しく書くと、「ゲームの構造を外からプレイヤーの思うように変えられる機能(つまりゲーム的にはメタ機能)を、ゲーム内の主人公が手に入れる」のである。
これを手に入れることにより、主人公ヤングは今まで行くことのできなかったマップに行くことができるようになる。
だけではない。ゲームの枠を飛び越えて、マップとして作られていない外の領域(何も配置されていなかったり、ただの黒い画面だったりする)とか、さらにその外の「ただのバグってるようにしか見えない場所(というか、マップ領域の外なので定義すらされていないと思われる場所である。そこに入ってもフリーズなどの破綻が起こらないようにしただけであろう、まさにゲームの外側)」とか、デバッグに使用した仮マップとか、そんなところを旅することができるようになる。
それは、あまりにも未整備な感触をプレイヤーに与えるという意味で、ゲームにおける「旅」の概念をひとつ越えたところにある、「未開の地を探検する」ような手触りである。
(ところで、ゲームの外側を冒険するという行為の手触りは、昔PC9801で出ていた『インサイダーズ・魔王ハルトンの罠』を思い出させる。あれはコンピュータの内側だけれど、コンピュータの内側にゲーム世界があるというインサイダーズの世界観と、ゲームの外側にコンピュータの世界があるというAnodyneクリア後の世界観は、ちょうど逆の方向からある境界線に接近しているように見えて非常に面白い。そこにはきっと、「ゲーム」の枠組みを広げようとする制作者の意欲と野望があるに違いない)
そんなかなりギリギリのところを歩くようなクリア後のAnodyneだが、しかしそれをギリギリでゲームにしているのは、いわゆる「クリア後のおまけ」である。クリア後に手に入るその機能を使ってしか行けない場所に隠しアイテムがあるのだ。
その中には、先に書いた「マップ定義のされていない外側」を通らないと手に入らないものや、バグ技としか思えない方法を使わないと取ることができないものもある。つまり、かなりゲームとしてはめちゃくちゃだ。そこまでやる人がどれだけいるのか怪しいレベルであり、破綻寸前の危うさがある。
しかし、しかし、不思議なことにこれがとても面白かったのだ。
暗闇で進めなくなり何度もやり直したり、マップの外側のバグった画面を行き来して、そこに隠された他愛もない隠しアイテムを探す。制作者もどこまで本気なのかわからないような、デバッグ用マップの謎を解いてこれまた他愛のない隠しアイテムを手に入れる。
これはあれだ。ゲームのデバッグに近い。(デバッグ作業になじみのある人はあまりいないかもしれないが)未知のバグを探しておかしな現象を目の当たりにしたり、壁に穴が空いていて抜けられる場所を探してそこからマップの外に出たり、未設定のメッセージテキストを発見したりする、あの楽しさに近い(本来は楽しむものではない)。
思い返せば、昔のゲームにはこんな手触りはいくらでもあった。ファミコンバブルに乗っかっただけのゲームはもちろんのこと、しっかりした名作と呼ばれるものでも、開発者が仕込んだ裏技や、バグを利用した遊び方を入れるのが当たり前だった。
Anodyneのクリア後の隠しアイテムで、どうしてもわからずに攻略を見たものがあった。それは、思わず「たけしの挑戦状かよ!」と言ってしまう種類の解き方であった。ミステリに例えるなら『アクロイド殺し』のトリックのように、禁じ手のような、それでいて(というかそれだからこそ)心に残るような手法である。
冒頭の言葉に戻る。
「ゲームはまだアバンギャルドにすらなっていない」
本当にそうだったのだろうか。
ゲームはその昔、囲碁のような「ルールの集合」から始まった。主に対人ツールとしての長い時代を経て、ゲームはコンピュータと出会う。ファミコンの爆発的な発展によって、世の中には「ゲーム」という語の境界を揺るがすほどの多くの表現が生まれることになる。
さらにコンピュータが進化していく過程で、ゲームはしっかりとした枠組みを構築し始める。グラフィックの進化や、ユーザーフレンドリーを意識することで、よりしっかりした「エンターテインメント」になっていった。
そこでは、ファミコン期にあった「雑さ」や、それに伴う「ゲーム境界線上の表現」は減った。言わば「ちゃんとした」ゲームが増え、そうでない(作りの甘い)ゲームは市場から駆逐されていった。むしろファミコン期は、現在から振り返ることで「アバンギャルド的=前衛的的」な手触りを帯びていたと確認できる。
(「前衛的的」と書いたのは、あの頃のゲーム表現がアバンギャルドを自覚していたわけではないだろうからだ)
Anodyneクリア後の風景は、その「前衛的的」な手触り、テレビゲーム黎明期に確かにあったあの不安定な雰囲気に、かなり近づいている。彼らがゲームを解体寸前まで持っていったことで、Anodyneはアバンギャルドなゲーム表現に近づいたと言えるだろう。
ただそれも、恐らく自覚的に行ったことではないのだろう。
だとすると、もしかしたら『たけしの挑戦状』こそ、この国に生まれた最初の自覚的な「ゲーム as アバンギャルド」であったのかもしれないと思ったりもする(かなり乱暴)。
まずゲームを芸術として捉えることができるという重要なことに気付かされたし、そもそも私たちがゲームから受け取った大切なものの中には、間違いなく芸術から受け取るものと同じ種類のものが含まれていると発見できた。
Anodyneの話だ。
前回、クリアまで7時間弱と書いたが、実は総プレイ時間は17時間を超えている。残りの10時間あまり何をしていたかというと、いわゆる「クリア後の世界」をプレイしていたのだ。
Anodyneのそれは普通じゃなかった。作られ方としては同人ゲームであることを考えても、なお異質に見えるゲーム体験だった。
まずクリアすると、ゲーム世界の仕組みを変えることのできるアイテムが使えるようになる。と言うとあまりピンとこないかもしれないのでもう少し詳しく書くと、「ゲームの構造を外からプレイヤーの思うように変えられる機能(つまりゲーム的にはメタ機能)を、ゲーム内の主人公が手に入れる」のである。
これを手に入れることにより、主人公ヤングは今まで行くことのできなかったマップに行くことができるようになる。
だけではない。ゲームの枠を飛び越えて、マップとして作られていない外の領域(何も配置されていなかったり、ただの黒い画面だったりする)とか、さらにその外の「ただのバグってるようにしか見えない場所(というか、マップ領域の外なので定義すらされていないと思われる場所である。そこに入ってもフリーズなどの破綻が起こらないようにしただけであろう、まさにゲームの外側)」とか、デバッグに使用した仮マップとか、そんなところを旅することができるようになる。
それは、あまりにも未整備な感触をプレイヤーに与えるという意味で、ゲームにおける「旅」の概念をひとつ越えたところにある、「未開の地を探検する」ような手触りである。
(ところで、ゲームの外側を冒険するという行為の手触りは、昔PC9801で出ていた『インサイダーズ・魔王ハルトンの罠』を思い出させる。あれはコンピュータの内側だけれど、コンピュータの内側にゲーム世界があるというインサイダーズの世界観と、ゲームの外側にコンピュータの世界があるというAnodyneクリア後の世界観は、ちょうど逆の方向からある境界線に接近しているように見えて非常に面白い。そこにはきっと、「ゲーム」の枠組みを広げようとする制作者の意欲と野望があるに違いない)
そんなかなりギリギリのところを歩くようなクリア後のAnodyneだが、しかしそれをギリギリでゲームにしているのは、いわゆる「クリア後のおまけ」である。クリア後に手に入るその機能を使ってしか行けない場所に隠しアイテムがあるのだ。
その中には、先に書いた「マップ定義のされていない外側」を通らないと手に入らないものや、バグ技としか思えない方法を使わないと取ることができないものもある。つまり、かなりゲームとしてはめちゃくちゃだ。そこまでやる人がどれだけいるのか怪しいレベルであり、破綻寸前の危うさがある。
しかし、しかし、不思議なことにこれがとても面白かったのだ。
暗闇で進めなくなり何度もやり直したり、マップの外側のバグった画面を行き来して、そこに隠された他愛もない隠しアイテムを探す。制作者もどこまで本気なのかわからないような、デバッグ用マップの謎を解いてこれまた他愛のない隠しアイテムを手に入れる。
これはあれだ。ゲームのデバッグに近い。(デバッグ作業になじみのある人はあまりいないかもしれないが)未知のバグを探しておかしな現象を目の当たりにしたり、壁に穴が空いていて抜けられる場所を探してそこからマップの外に出たり、未設定のメッセージテキストを発見したりする、あの楽しさに近い(本来は楽しむものではない)。
思い返せば、昔のゲームにはこんな手触りはいくらでもあった。ファミコンバブルに乗っかっただけのゲームはもちろんのこと、しっかりした名作と呼ばれるものでも、開発者が仕込んだ裏技や、バグを利用した遊び方を入れるのが当たり前だった。
Anodyneのクリア後の隠しアイテムで、どうしてもわからずに攻略を見たものがあった。それは、思わず「たけしの挑戦状かよ!」と言ってしまう種類の解き方であった。ミステリに例えるなら『アクロイド殺し』のトリックのように、禁じ手のような、それでいて(というかそれだからこそ)心に残るような手法である。
冒頭の言葉に戻る。
「ゲームはまだアバンギャルドにすらなっていない」
本当にそうだったのだろうか。
ゲームはその昔、囲碁のような「ルールの集合」から始まった。主に対人ツールとしての長い時代を経て、ゲームはコンピュータと出会う。ファミコンの爆発的な発展によって、世の中には「ゲーム」という語の境界を揺るがすほどの多くの表現が生まれることになる。
さらにコンピュータが進化していく過程で、ゲームはしっかりとした枠組みを構築し始める。グラフィックの進化や、ユーザーフレンドリーを意識することで、よりしっかりした「エンターテインメント」になっていった。
そこでは、ファミコン期にあった「雑さ」や、それに伴う「ゲーム境界線上の表現」は減った。言わば「ちゃんとした」ゲームが増え、そうでない(作りの甘い)ゲームは市場から駆逐されていった。むしろファミコン期は、現在から振り返ることで「アバンギャルド的=前衛的的」な手触りを帯びていたと確認できる。
(「前衛的的」と書いたのは、あの頃のゲーム表現がアバンギャルドを自覚していたわけではないだろうからだ)
Anodyneクリア後の風景は、その「前衛的的」な手触り、テレビゲーム黎明期に確かにあったあの不安定な雰囲気に、かなり近づいている。彼らがゲームを解体寸前まで持っていったことで、Anodyneはアバンギャルドなゲーム表現に近づいたと言えるだろう。
ただそれも、恐らく自覚的に行ったことではないのだろう。
だとすると、もしかしたら『たけしの挑戦状』こそ、この国に生まれた最初の自覚的な「ゲーム as アバンギャルド」であったのかもしれないと思ったりもする(かなり乱暴)。