批評(ex.goma油)

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趣味の批評をしてみたいと思いました。

Anodyneというゲームに見る、ゲームと芸術の話 前編

Anodyneというゲームをやった。

Steam、iOSAndroidでプレイできるが、日本語化を担当したKakehashi Gamesにリンクがまとまっているのでそちらを貼ることにする。

 

Anodyne - Kakehashi Games

 

と思ったけど、概要等々まとまっているのでこっち(↓)も貼っておこう。

 

http://www.playism.jp/games/anodyne/

 

Anodyneは、ゲーム的な説明をするなら「MOTHER」の内省的な部分のみ使った「2Dゼルダの伝説」。ざっくり言うと、ゲームシステムは2DマップのアクションRPGであり、ストーリーは暗くて陰鬱な雰囲気ってことだ。

クリアまでのプレイ時間は7時間弱。注意事項としては、スマホタブレットでプレイする場合はバーチャルパッドになるので操作性があまり良くないこと。ゲーム用のコントローラを接続するか、Steamでプレイした方がいい。おそらくバーチャルパッドでは、最後の方の難易度についていけない気がする(私はAndroidタブレットPS3のコントローラをつないでプレイしました)。

 

ゲームスタイルとしては懐かしいレベルでオーソドックスだ。というか本当に簡易2Dゼルダだ。簡易と書いたのはアイテムがホウキだけだから。あとはマップの仕掛けをホウキで何とかして進んで行くだけ。簡単にゲームに入りこむことができる。おっさん世代にはとても懐かしく、ほぼ一気に最後までプレイしてしまった。

だが、多くのレビューでも触れられているように、このゲームが特徴的な点はその極度に内省的なテーマだろう。上記のページには以下のような説明が書いてある。

 

’ Anodyne(アノダイン)は、ヤングという少年が、自分の心の無意識が生み出した世界を探索するゲームです。’

 

そうだったのかという思いでいっぱいである。

主人公がヤングという名前だということはわかる。そして、彼が旅する奇妙な世界(※1)が、おそらく内面的な世界だろうということは感じられるが、プレイしていてもこのような設定は明確に示されない。クリアしてもはっきりとした説明はない。

辛うじて、普通にプレイしたのではわからない部分でヤングがゲーム世界から現実へと戻る描写があり、このゲーム世界が「彼の内的世界」とイコールであると推測できる程度である。

 

※1 このゲームでは、いくつかのエリアを行き来することになるのだが、その世界観の多様さはまさに「旅する」という言葉がふさわしいほどである。荒廃したマップ、街のようなマップ、近未来的なマップ、などなど移動するたびにプレイヤーをワクワクさせてくれる。このような関連の薄い世界同士がつながっている様は、サガフロンティアのエリア構成も思い出させるが、Anodyneはそれをより直接的に結ぶことで、より夢の中にいるような効果を出すことに成功していると思う。

 

このような、いわば「わけのわからない世界」を旅することで、このゲームはある種の「芸術性」を獲得していると思う。そしてそれこそが、このゲームが評価された大きなポイントであると私は思っている。

芸術性とは何か。どういった場合に、人は芸術性を感じるのか。芸術性はどこから生まれてくるのか。

例えば、良くわからないけれどもグッとくるものってあるだろう。理由が明確に言葉にできるわけじゃないけれど、それでも自分にとって燦めくような魅力を放つもの。

私の場合で言うと、例えば楳図かずおが描く漫画表現の数々。冷静な、客観的な、もしくは社会的な眼で見た時、彼の表現はいわゆる「ツッコミどころ満載」である。

例えば『漂流教室』で描いた地割れのシーン。ジャンプ力によって次々と振るい落とされる小学生たち。その滑稽なまでに単純化された「試練」は、終盤にしてはシンプルすぎる上に、なんとその後すぐ、北で地割れが終わっていることが描かれる。そっち行けば良かったじゃん! 無駄死にじゃん!

漂流教室』にはこの手の無駄死にが頻出し、どれもあまり理由は無いように見える。だが、彼の作品が素晴らしいところは、それが作品の都合によってのみ登場人物が殺されるようなご都合主義にはなっていないという点だ。

読み手にははっきりわからないが、しかし「楳図かずおはこの滑稽に見える描写に、確かな意味、確信を持っている」ということは伝わる。

 

別の例を挙げてみる。

ハンバートハンバートの『白夜』という曲がある。ある女が男に対して、いろいろあったけど今夜は全部許してあげる。という趣旨の言葉を連ねる歌である。

特に白夜である必要はないはずだし、白夜という言葉も出てこない。が、この曲のタイトルは『白夜』でなければならないと、「作り手が確信しているということ」は受け手である私にも伝わる。

 

もしくはエレファントカシマシ『星の砂』という曲。この曲は思春期の宮本浩次が、周囲の若者への苛立ちと共に日本の右傾化を揶揄しているような歌詞だ(というふうに私は受け取っているが、実際どうなのかは知らない)。

この曲のサビは、主に上のような歌詞であるにも関わらずこうだ。

’ 星の砂 星の砂 星の砂 星の砂 …’

なぜなんだ。どうして「星の砂」なんだ。というかそもそも「星の砂」とは何だ。それをどうしてこの奇妙で美しい曲のサビにしたんだ。

どうしてこれがこうなっているのか、表現されたものからだけでは、受け手に完全に理解することはできない。いや、たとえ作り手が言葉で語るなどしてその理由を示したとしても、それでもなお「なぜその表現が選ばれたのか」という本当のところ、きっと作り手に訪れたであろう言語化されない感覚は伝わらない。

けれど、その表現を受け取った時に確かに感じるものはある。得も言われぬ感動が湧き上がってくることがある。

それは「受け手にはわからないが、作り手には必ずこの表現でなければならなかった理由がある」と感じる瞬間でもある。つまり良い芸術とは、その「受け手にはわからないが、作り手には必ずこの表現でなければならなかった理由がある、と受け手が感じられること」があるということだと私は思っている。

 

そしてそれは、もちろんAnodyneからも感じることができる。画面を切り替えるごとに、森から海へ、奇妙な荒野へ、なぜかホテルへ、研究所へ、そしてファンタジー世界へと脈絡なく切り替わる世界。『陰陽』という、理由はわからないが重要であろうキーワード。何より、主人公ヤングとブライアの関係に対する説明のなさ。

これらの要素は、意味がわからないからこそ光り輝いているように思える。つまり、プレイヤーにはわからないが、このゲームを必死で作った2人の青年が、何かとてもとても大切なものをこのゲームに込めたのだ、ということは痛いほど伝わる。

解釈など必要ではない。その、彼らが思い描いた何か、ずっと遠くにある何かの「存在の温度」を感じること。

それがこのゲームに芸術性を纏わせ、またゲームを芸術たらしめるとはどういうことかを示しているのだと思う。

 

だからこのゲームのエンドロールは、とてもあたたかい。彼らがやりきったという感慨が詰まっていて、少しほっとしたような、とても幸せな感慨に浸ることができる。

それは、青春を振り返って感じる切なさのようでもあった(それは俺が歳を取っただけだがな)。

 

後編に続く。