瀧と田代のはなしなど
ピエール瀧が逮捕されてしばらく経つ。
僕は電気グルーヴの『VOXXX』というアルバムが大好きで仕方がないのだ。
『VOXXX』は、砂原良徳が抜けて2人体制に戻った電気が放った、薔薇とウンコが一緒になったような、強烈な振れ幅で強烈な匂いを放ちまくる傑作だ。
(ところで『シャングリラ』という名前の名曲を作り、3人組が同級生の2人に戻るってところ、チャットモンチーも同じね)
このアルバムの素晴らしいところは、圧倒的な芸術的光量である。芸術とは、その人(たち)にしか見えない世界を、他の人たちに間接的に見せる「光」のことだ。
これは何も「特別なアーティストは特別な世界を見ることができる」という意味ではない。誰でもそうであるように、自分が感じている世界は他の人には絶対に直接感じることはできない。その前提から、その自分の感じている世界を「照らして間接的に他の人にも伝える」という行為こそが芸術行為であり、その意味で「誰でも平等に芸術行為をなすことができる」という意味である。
そして、その光の強烈さにおいて『VOXXX』は圧倒的なのだ。
世界で一番明るい太陽が降り注ぐ場所で、過剰な量のストロボを焚きまくって、どんな小さな違いでさえも印画紙に最高の解像度で焼き付けたい。そんな気狂いすれすれの強い意志を感じる。
だから僕はこのアルバムが大好きだ。
で、ここからはドラッグの話に入る。
僕はドラッグ類はやったことはないが、精神科でもらう薬はものすごい量飲んでいる。以前は酒もタバコも欠かせないような状態だったが、しばらく精神薬と一緒に飲んでいたら大変なことになったので、酒とタバコの方をやめた。
酒もタバコも、やめてから10年弱は経っているが、未だにときどき夢に見る。
夢で吸うタバコがまたうまいんだ。「あ、おれタバコ吸っちゃってるなあ」って気付くんだけど、夢のタバコは本当にうまいから、罪悪感を感じつつも「しょうがねえな」と吸い続ける。
夢から覚めると、吸っていたタバコが夢だったことがわかってほっとするんだけど、同時にあのタバコのうまさも残っていて、「タバコってなんてうまいんだろう」とも思う。
脳には可塑性という性質があって、一度変化してしまったら、元には戻らないと言われている。僕が今でも夢でタバコを「うまい」と感じるのは、その部分の脳がもうそうなってしまっているからだと納得している。酒も同じだ。
また、精神科の薬も同じようなものだと思う。睡眠薬は典型的で、脳が睡眠薬に慣れてしまっているので、飲まないと眠れない。眠くなるけど眠れなくて、ウトウトしては目が覚めるの繰り返し。だけど飲むとすぐ、眠れる。
睡眠薬以外の薬も、飲まないと調子が悪くなるので飲んでいるが、それは果たして薬が効いているのか、それとも薬が切れた離脱症状をおさめるために飲んでいるのか、わからなくなることもある。
日本で合法的に手に入る酒やタバコ、治療薬でさえこのありさまである。それよりもっと気持ちが良い(らしい)ドラッグをやめることは、相当に苦しいだろうと僕は想像する。
僕個人としては、そういうわけでドラッグ類はやらないが、ドラッグ依存になってしまった人の気持ちは多少わかるゆえに、彼らを責めることはしたくない。
電気グルーヴ自体や、瀧をかばう卓球はもちろんのこと、瀧も、僕は責めない。ただドラッグ依存とその治療の苦しみから、少しでも解放される時がいつか来るのを見守りたいと思っている(もちろんドラッグを使う以外の方法で)。
そもそもなぜ、ドラッグの類は違法とされるのか。いやその前に、なぜドラッグをやってはいけないのだろうか。
僕の答えは相変わらず「やってもいい」だ。
この「やってもいい」は、社会的な善悪や道徳的な意味ではない。
個人の判断としてそれをよしとするならば、という条件付きで、やってもいいということだ。個人の判断としてそれをよしとする場合、個人の外にあるいかなる制約も意味を成さない。だって自分がいろんな意味で許可するからだ。
それを止めるものはないし、もし自分が止めるなら、それは上の条件を満たしていない。よって、自分がそれを許可するのなら、ドラッグは(のみならずどんなことであっても)やってもいい。
しかし、にも関わらず多くの人はドラッグをやらない。それは大きく「社会的な悪だから」と「自分の害になるから」という2つの理由によるものだ。そして、その理由により「自分でドラッグをやらない」という選択をしている。
これらの社会による制御と自身による制御があるので、多くの人はドラッグに手を出すことなく、依存することもなく生きている。
それでもドラッグに手を出したり、やめられない人が後を絶たないのは、その抑止力よりも、苦しみやつらさから逃れたいという気持ちが勝るからだと思う。ドラッグに手を出すことで生きていけるのなら、抑止力なんてないに等しい。
つまり、それだけその人は生きたがっている。
そんなことを書いていたら、田代まさしがバリバラに出るというニュースを見かけたので、録画することにした。
何年か前にもダルクで働く彼をテレビで見て気になっていたので、今回も見ることにしたのだ。
テレビのスタジオで久しぶりに見る彼は、正直、結構つらそうだった。本当のところはわからない。しかし、察するにものすごい葛藤と躊躇の末に出ることにしたのだろう。
自分でも、昔の自分に戻れないことは良くわかっている。テレビに出る恐怖もかなりのものだったろう。昔のようにおどけるマーシーは、しかし全く昔のようではなく、何かを(おそらく依存への諦めとか恐怖とか周囲の視線とか期待とか)克服しようとする努力で悲しく映るほどだった。
だからと言って彼を否定したいわけではなくって、僕はその、葛藤や格闘を見せながら、生きていこうとする彼の姿に拍手を送りたいとすら思っている。
つらいだろうと思う。
そして、そんな人が世界にはたくさんいると思う。
どうしようもない孤独に押しつぶされそうになる夜、星空を見上げてみるといい。同じ星を見つめる者は、他にも必ずいるんだ。必ず。