山口真帆の笑顔の未来へ
NGT48の騒動が一区切りついたようだ。
もともとNGTは好きなグループだったんだけど、今年に入ってから随分とごたごたしていたので、うんざりして見るのをやめてしまっていた。
僕はこの事件が起こってから、山口真帆はすぐにでもNGTを辞めた方がいいし、いずれ辞めざるを得なくなるのではないかなと思っていた。
しかし彼女は闘った。
ものすごくしんどかったと思う。今回同時に卒業した2人を含めても、ほとんど仲間がいない状態で、表に出て闘おうとしていたのだと思う。
おそらく、これまでにもたくさんの、似たような少女がいただろう。黙って、怒りを押し殺して去っていった誰かたちの分も、彼女は闘った(そのつもりがなくてもだ)。
こういうことは、組織でも往々にして起こる。
歪な構造が組織内に生まれて、耐えられずに心身を壊したりして辞めていく人がいる。そこまで行かなくても、違和感やストレスで転職をする人もいる。
辞めていく人たちは、基本的に黙って去る。会社の何が悪いのかは当然言わずに、去っていく。
社内にいるのはまだ耐えられる人か、そもそもそう言ったことを感じていない人なので、会社側も辞めていった人からあまり学ぶことができない。そして歪んだ構造は変わらない。変わらないとどうなるかと言うと、また同じような人を生み出し、また誰かが静かに辞めていく。
これを繰り返し、会社から人が減って困ったり、全体に不満の空気が充満してきたころ、ようやく会社は何かが歪んでいたと気づくのだ。
つまり何が言いたいか。
そこにいながらにして声を上げることは、とても勇気がいることだ。自分を守るためだけではそれはできない。自分を守るためだけならばそこから逃げればいいからだ。
だからきっと、彼女は自分を守る以上の何かに突き動かされて声を上げたのだと思う。それは本当に、本当に大変なことだ。それだけで僕は彼女のことを尊敬してやまない。
ところで、僕はこの事件のある一面としての「アイドルは男を作ってもいいのか」という問題に対しては、「別にいい」と思っている。
だって恋をしたら、あの気持ちの高ぶりを抑えることなんてできるわけないし、好きになってしまったら仕方ない。それは否定しない。というか否定してはいけない。
もし彼氏がいるということが知れ渡ったら、アイドルとしては人気が落ちるだろうが、それもまた選択の自由である。
この議論はしばしば、アイドルが男を作るのはいいか悪いか、などという善悪の議論になってしまうことがあるが、そうではなく、アイドルという職業が性質としてそういう風になっているよ、というただの説明にすぎない。
もし人気が落ちるのがいやで男は絶対に作りません、というのも自由だし、男は作って人気が落ちてもアイドルやりたい、というのも自由だし、男の方が大事だからアイドル辞める、というのも自由だ。
どれが正しいとか正しくないということではない。
で、何が言いたかったかというと、この事件の本質はそこではないということだ。
この件について加藤浩次や長嶋一茂が発言をしていたのがニュースになっていた。僕も同じ意見なのだが、たとえ不起訴になったからと言って「被害を受けて声を上げた人間が、追われるように辞めなければいけない」というのはいかがなものだろうか。
加藤浩次も長嶋一茂も、ちょうどアイドルをやっていてもおかしくない世代の娘さんがいる。僕も、その世代ではないけれど子どもがいる。
どうがんばっても憶測にしかならないので間違っている可能性も大いにあるが、NGTが山口真帆に行ったことは、たとえ、それが「その他多くの人間を守るため」であったとしても、彼女の家族や親の立場に立ってみれば、到底許すことはできない。
NGTは確かに、何かを守ろうとしている雰囲気を出している。
それが何なのかはわからないが、もし山口が自分の娘だったらと想像すると、たとえ世界が全て敵になろうとも、自分は娘の側に立って守りたいと思う。
子どもがいない人は実感が湧かないかもしれないが、もし被害を受けたのが「かけがえのない唯一の存在である自分だったら」と考えることはできる。自分以外の全ての人が敵になったとしても、自分を守れるのは自分しかいないんだ。
そして親って言うのは、時に自分よりも子どものために犠牲になれるものなんだ。
そんな流れでこの曲を。
もう11年前か。
エレカシが蔦谷好位置と組み始めたころの名曲。ギターのイントロから最初のボーカルが入るまでの流れが癖になる。
歌詞はラブソングなんだけれど、このPVの少女と宮本先生の微笑ましいやりとりを見ていると、いとしい娘に贈った曲にも聞こえてくる。
未来はいつも思ったよりもやさしくて
風景がふいに滲んでくる
と、NGT48の『Maxとき315号』にもある。
どうか、彼女たちの未来が笑顔でありますように。