山口真帆の笑顔の未来へ
NGT48の騒動が一区切りついたようだ。
もともとNGTは好きなグループだったんだけど、今年に入ってから随分とごたごたしていたので、うんざりして見るのをやめてしまっていた。
僕はこの事件が起こってから、山口真帆はすぐにでもNGTを辞めた方がいいし、いずれ辞めざるを得なくなるのではないかなと思っていた。
しかし彼女は闘った。
ものすごくしんどかったと思う。今回同時に卒業した2人を含めても、ほとんど仲間がいない状態で、表に出て闘おうとしていたのだと思う。
おそらく、これまでにもたくさんの、似たような少女がいただろう。黙って、怒りを押し殺して去っていった誰かたちの分も、彼女は闘った(そのつもりがなくてもだ)。
こういうことは、組織でも往々にして起こる。
歪な構造が組織内に生まれて、耐えられずに心身を壊したりして辞めていく人がいる。そこまで行かなくても、違和感やストレスで転職をする人もいる。
辞めていく人たちは、基本的に黙って去る。会社の何が悪いのかは当然言わずに、去っていく。
社内にいるのはまだ耐えられる人か、そもそもそう言ったことを感じていない人なので、会社側も辞めていった人からあまり学ぶことができない。そして歪んだ構造は変わらない。変わらないとどうなるかと言うと、また同じような人を生み出し、また誰かが静かに辞めていく。
これを繰り返し、会社から人が減って困ったり、全体に不満の空気が充満してきたころ、ようやく会社は何かが歪んでいたと気づくのだ。
つまり何が言いたいか。
そこにいながらにして声を上げることは、とても勇気がいることだ。自分を守るためだけではそれはできない。自分を守るためだけならばそこから逃げればいいからだ。
だからきっと、彼女は自分を守る以上の何かに突き動かされて声を上げたのだと思う。それは本当に、本当に大変なことだ。それだけで僕は彼女のことを尊敬してやまない。
ところで、僕はこの事件のある一面としての「アイドルは男を作ってもいいのか」という問題に対しては、「別にいい」と思っている。
だって恋をしたら、あの気持ちの高ぶりを抑えることなんてできるわけないし、好きになってしまったら仕方ない。それは否定しない。というか否定してはいけない。
もし彼氏がいるということが知れ渡ったら、アイドルとしては人気が落ちるだろうが、それもまた選択の自由である。
この議論はしばしば、アイドルが男を作るのはいいか悪いか、などという善悪の議論になってしまうことがあるが、そうではなく、アイドルという職業が性質としてそういう風になっているよ、というただの説明にすぎない。
もし人気が落ちるのがいやで男は絶対に作りません、というのも自由だし、男は作って人気が落ちてもアイドルやりたい、というのも自由だし、男の方が大事だからアイドル辞める、というのも自由だ。
どれが正しいとか正しくないということではない。
で、何が言いたかったかというと、この事件の本質はそこではないということだ。
この件について加藤浩次や長嶋一茂が発言をしていたのがニュースになっていた。僕も同じ意見なのだが、たとえ不起訴になったからと言って「被害を受けて声を上げた人間が、追われるように辞めなければいけない」というのはいかがなものだろうか。
加藤浩次も長嶋一茂も、ちょうどアイドルをやっていてもおかしくない世代の娘さんがいる。僕も、その世代ではないけれど子どもがいる。
どうがんばっても憶測にしかならないので間違っている可能性も大いにあるが、NGTが山口真帆に行ったことは、たとえ、それが「その他多くの人間を守るため」であったとしても、彼女の家族や親の立場に立ってみれば、到底許すことはできない。
NGTは確かに、何かを守ろうとしている雰囲気を出している。
それが何なのかはわからないが、もし山口が自分の娘だったらと想像すると、たとえ世界が全て敵になろうとも、自分は娘の側に立って守りたいと思う。
子どもがいない人は実感が湧かないかもしれないが、もし被害を受けたのが「かけがえのない唯一の存在である自分だったら」と考えることはできる。自分以外の全ての人が敵になったとしても、自分を守れるのは自分しかいないんだ。
そして親って言うのは、時に自分よりも子どものために犠牲になれるものなんだ。
そんな流れでこの曲を。
もう11年前か。
エレカシが蔦谷好位置と組み始めたころの名曲。ギターのイントロから最初のボーカルが入るまでの流れが癖になる。
歌詞はラブソングなんだけれど、このPVの少女と宮本先生の微笑ましいやりとりを見ていると、いとしい娘に贈った曲にも聞こえてくる。
未来はいつも思ったよりもやさしくて
風景がふいに滲んでくる
と、NGT48の『Maxとき315号』にもある。
どうか、彼女たちの未来が笑顔でありますように。
【NUM】おっさんは踊る【HEAVYMETALLIC】
NUMBER GIRLが復活するらしいですね。
実際、このニュース見た時は二階の窓を破って飛び出しそうなくらい驚いたし、うれしいような何か居てもたってもいられない衝動が全身を駆け巡ったよね(シーガルに中尾憲太郎が入った時も謎のうれしさがあったけど、またこれは格別だ)。
あの頃まだ若者だったみんなは、みんなあの頃の得体の知れない衝動を思い出したと思うんだよねえ。
なんか、大人になって忘れてたわ。
胸の奥に鋭い爪のゴツゴツした腕をねじ込まれて、その奥にあったはずのぐろぐろと赤黒い物を引っ張り出されて、それで当時若かったこととか、元気ってなんだったのかとか、恥ずかしいってどういうことだったのか、恋ってどういうことだったのか、そんなすっかり忘れていたエナジーを無理やり引きずり出された感じ。
みんなもそんな感じしてるのかなあ。
どうなんでしょうか。
声とか、弦の張りとか、スネアの硬さとか、とにかくサウンドの気持ちよさに目覚めさせてくれたバンドでもあるし。
ああ、行きてえなあ。
Yさんに捧げる6曲(もしくは今にも死にそうな人のためのミュージックガイド)
Yさんという人がいた。
Yさんとは最近連絡を取っていなくて、どうしているのか頭の隅にありつつも、特に連絡を取るでもなく、こちらから消息を調べるわけでもなく、ただ時が過ぎていった。年齢が上がるとどうしてもそう言った友人が多くなるし、他にも何人もそういう友達が増えた。
そしたら、Yさんは実はすでに亡くなっていた。
寝耳に水だ。いや、それを知っていた人からすれば、Yさんが亡くなったことは当たり前の事実であり、すでに心も整理できていたかもしれない。
だが僕は知らなかった。それくらいの距離感だった。と、言ってしまえばそれまでだが、それでもやはり知っている人が亡くなるのは悲しいし、知らなかった分普通よりショックを受けた。
なぜだ。
もちろんそんな問いに答えはない。空を見上げて考えてみても、出てくるのは「Yさんはもういない」という事実のみである。
なので、Yさんのことを思い出しながら音楽を紹介してみたい。
Yさんは音楽がとても好きだったから。
Yさんに捧げる6曲
(もしくは今にも死にそうな人のためのミュージックガイド)
AIR 『YAWN』
現在「Laika Came Back」として活動している車谷浩司が、その一つ前にやっていたソロプロジェクトがAIRである。
『YAWN』は落ち着いたテンポで奏でられる優しいナンバーだが、どこか寂しげだ。
もしも僕がやがて
あくびのふりして涙を浮かべたら
見逃してください
悲しくて涙が出るのだが、僕はそれをあくびのふりでごまかそうとしている。もしそれを見かけても「見逃してください」という歌詞である。
「見逃してください」という言葉は字面ではかなり切迫している。にもかかわらず、内容は他人へのささやかなお願いだ。基本的にはそんなこと(あくびのふり)は、他人も見逃してくれるか、そもそも「ほんとうの涙」であるとは気づかないだろう。
そんな些細なことの、他人への懇願である。
そこには、矮小化された「僕」の自分へのまなざしと、他人への痛いほどのおそれが混在しているのを感じることができる。
僕は自分が取るに足らないことを知っている。
しかしそんな僕でも、今は涙を浮かべるほどに悲しい。
だからせめて、他人にはそれを認めてほしい。
しかし直接泣いている姿を見せられないので、せめて「泣いている自分があくびのふりを装っているということ」は認めてほしい。
それほどまでに他人への愛を求めている僕の痛みが、じんわりとした疲れの感覚を伴ってしみ込んでくる。
この作品が入ったアルバム『Usual tone of voice』には、似たような感覚を持った『Heavenly』も収録されている。気に入ったらそちらもぜひ。
Avicii『Levels』
先日亡くなったAviciiから、出世作の『Levels』を。
この記事内で紹介する楽曲は、他のものは全てspotifyのリンクを貼っているんだけど、これだけは別。MVを見た方が良い。
ここにはいわゆるEDMのイメージとは全く異なる絶望と、再生への希望がある。
この音楽が「毎日取りたててしたくもない仕事をしている僕らの絶望と希望」のダンスミュージックであるということは、このMVを見れば一発でわかる。
この繊細さ故に彼が若い命を落とすことになってしまったのなら、それはとても残念なことだと思う。
ミドリ『愛って悲しいね』
Yさんのことを思い出すとき、僕はまた、それに似た女性を思い出すことができる。現在は解散してしまったバンド、ミドリのボーカル後藤まりこである。
ミドリはおかしなバンドだった。簡単に言うとシンセありのパンクなのだが、だからと言ってPOLYSICSみたいなことではない。いや、衝動性はポリに似ているけれど、もうちょっとウェットな、直截的に言うと少し経血が混じっているような音楽である。
近しいところでは日本マドンナ。しかし、ピアノの音とウッドベースのおかげで相当なリズム感が出ている。という感じなのだが、どうせ聞いた方が早いので音の説明はこの辺りで終わらせる。
で、僕が思い出すYさんも後藤まりこも、どちらも自分の母に似ているために思い出すようなところがある。母に似ているということは、必然、自分にもその資質がある程度受け継がれているわけであり、自分に親しい感じがして正直好きである。
と言うことは、僕はそんな、女性の衝動性に振り回されるのが好きなのだと思う。
日食なつこ『神様お願い抑えきれない衝動がいつまでも抑えきれないままでありますように』
衝動と言えば、長い題名でお馴染みの(かどうかは知らないが)この曲。
題名の時点で言いたいことはほぼ言っている。この題名を見た時、僕は「ああ、ここにも同じことを感じている人がいた」と思った。
抑えきれない衝動は、抑えきれないがゆえに自分に害を為すと言う意味で、できれば避けたいと思っている人もいることだろう。
けれど僕たちはまた、衝動を感じている時、その大きさに比例して生きているという実感をも得ることができる。生命力は衝動を生むということを、僕たちは実感として知っている。
だから僕たちは、衝動を抑えるのではなく、どこまでも飛んで行けるような覚醒性の担保として、できるだけ感じていたいのだ。
みたいなことを、僕たち(この項の僕たちという表現は、常にこの感覚を共有できるような僕たちだ)は、この曲の題名の時点で、考える前に腑に落ちている。
題名とは打って変わって、一言一言祈るような調子で歌われるのは、そう言った僕たちの「衝動」への、霊的な信仰であるようにも思う。
野狐禅『ならば、友よ』
Yさんとは、結局まじめな話はしなかった。
ならば、友よ
死ぬ間際でいいや
君と夢を語り合うのは
死ぬ間際でいいや
と、メロディックなシンセサイザーに乗せて歌われる、武骨な歌。
「死ぬ間際」はいつ来るかはわからない。
できることなら、大切な人とは死ぬ前にまじめな話の一つでも、しておいた方がいいのかもしれない。それで悔いが少しでも減るのなら。
槇原敬之『GREEN DAYS』
僕らの歩んできた道は、間違いなく青春だった。
それじゃあ、またね。
松井珠理奈のためのブックガイド
松井珠理奈が何やら話題になっていた。
なっていた、と言ってもそれはファンのコミュニティ内での話なので、一般的にはそうでもないことと思う。ああ、またAKB総選挙やってたんだ。ぐらいの認識であることと存じ上げております。
まだ小学生だった時にSKE48一期生として入り、いきなりAKB48『大声ダイヤモンド』のセンターに抜擢される。ローティーンらしからぬ大人びたルックスで、文字通り大型新人が出てきたと感じたものだ。で、彼女はそれ以降SKE48のトップに君臨し、長らく松井玲奈と共にグループを牽引してきた。
のみならず、それから10年経った今年、SKE48の最新シングル『いきなりパンチライン』でもセンターを務めている。途中センターを若手に譲ったことは何度かあるが、SKE10周年のメモリアルなシングルは、やはり松井珠理奈の単独センターであった。
それは、SKE48の歴史が「松井珠理奈そのものであった」というメッセージのようでもある。
そして先日の総選挙以後、松井珠理奈は体調を崩して休養に入っている。発表によると、総選挙までの3日間、食事ができず眠れない状態だったらしい。
以前にも松井珠理奈が体調を崩していた時期はあった。だが、その頃はまだ他に頼れる「お姉さん」メンバーがいた。彼女が体調を崩していても、前に出て代わりになれるメンバーがいた。
しかし今回はグループを背負って立つ立場である。誰にも代わりはできないし、誰も風除けになれなかったことだろう。その重圧を、周囲の人がもう少し感じてあげられたなら、この事態にはならなかったかもしれない。今そんなことを言っても仕方がないが、残念ではある。
少なくとも本人は大変に疲弊していることだろうから、周囲も、自身も、どうか責めずにいたわっていただきたいと切に願う。
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話は変わって、僕は結構な完璧主義者である。
自分のできることは最大限にやっておきたいし、何なら最大限を超えて自分の限界までチャレンジしてしまうことがこれまでに多々あった。
その最中はある種「ハイ」になっているので気付かないが、終わってからガタッと崩れることもしばしば。体調を崩して(という名の脳の酷使で)、数えきれないくらい心療内科や精神科にお世話になった。今は年齢のせいか、そこまで追い込むことはなくなったのでそれなりに落ち着いているが、若いころはエネルギーも有り余っているため、自分の心身に「過剰な負荷をかけていたなあ」と思う。
完璧主義は、できなかった時に「自分を責めてしまうが故に危険である」という問題がある。完璧を目指そうとしてできなかったわけだから、理由を探して「できなかった自分」を責めるのは、ある意味当たり前である。しかし、本当の問題点はそこではないと僕は思っている。
実は完璧主義の問題点は、それが「できてしまった」時に発露するのだ。
完璧を求めて「それを達成してしまった」時、どうなるか。まずは達成感が訪れ、自分が完璧であるかのような高揚感が全身を包む。
しかしそれは一時である。その後すぐに「できなかった些細なこと」に目が向くようになる。次は「もっと完璧に」「もっと完全に」と思うが、それは同時に恐怖でもある。
ようやく乗り越えて手にした成功に対し、あたかも泥をぶちまけるように否定する。次はもっと完璧に、完璧にしなければいけないと思い込む。それは終わりのない苦行だ。100%でできたら、次は110%、その次は120%と、自分に課するノルマも青天井に上がる。そして、もちろんそんなことはできるはずがないので、どこかで力尽き「やはり俺はダメだった」と自分を責める口実を手に入れる。
良かった良かった。できちゃってたから油断してたけど、最終的には自分を責めることができたね。なーんてことはなく、これではただツラいだけである。こうなると、しばらく休んでも一緒。また「完璧を目指して」自分を削り、エネルギーが切れてまた止まることの繰り返しだ。
また、自分を責めるだけでなく、時にはそれが他者への怒りとなって現れることもある。なぜなら、こっちは「死ぬ思いで150%やってるんだ」という気持ちがあるからだ。
「こっちがこれだけやってるのに、君は、君たちは何をやってるんだ!」
「見たところ50%ぐらいしか出してないじゃないか!」
「ふざけるんじゃないよ!」
と、自分を責めきれないエネルギーが溢れだし、他者に対して向けられることも往々にしてある。自分としては当然の怒りに感じるが、こうなってしまうと周りの人間は溜まったものではない。
当然、周囲には溝が生まれ、心は通わなくなる。相手もこちらの怒りに合わせるように怒りを出してくるようになる。最後には自分も相手も潰してしまう。
ああ、イヤだね。
書いてるだけで思い出すあのイヤな感じ。
周りに味方なんていないし、自分さえも自分の味方ではない。
どこにも逃げ場はない。
絶望。
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で、最後に、僕がそんな時に読んだ本、もしくはそんな時に読みたかった本、もしくは絵、などを紹介します。
まず一冊目はこちら『こころのヨーガ』。
この本は「ヨーガ」と書いてあるけれど、いわゆる「ヨガのポーズ」などは一切載っていないという変わった(?)一冊。最近流行りの「マインドフルネス」の源流にある思想が、わかりやすく書かれています。
ページごとにアドバイスめいたことや「心の持ちよう」について書いてあるので、短い時間でも読めるし、気が向いた時に開くだけでも落ち着いた気分になれます。過去や未来にとらわれることなく「現在を生きる」助けになる良書です。
二冊目は『逃げ出したくなったら読む本』。
出版社のページが見つからなかったので、ライフハッカーの書評のリンク。ぜひそちらも読んでみてください。
これも疲れた時に大変重宝する一冊。
大切なのは「自分の感情」であり、「自分の感情」を大事にするだけで全てうまくいくよ。そういう内容の本です。
なんて書くと「自分勝手」を勧めるような感じがして語弊を生みそうだけれど、決してそうではありません。
「自分を大切にすることで、結果的に相手のためにもなるんだよ」「逃げ出したくなったら逃げてもいいんだよ」「その自分の気持ちを分かってあげましょうね」と、優しく教えてくれます。
三冊目は石田徹也の画集にしようと思ったのだが、これまた適当なリンクが なかったので公式HPをぺたり。
まあ、あれこれ言わずに彼の絵を見てほしい。「あ、この感じ知ってるな」と思った方は、ようこそ、君はこちら側の人間だ。
僕は絶望的な気分になった時、石田徹也の絵を見る。そこに、今の自分と同じような人々(もしくは人のような何か)を見て、絶望が底をつくまで待っている。
彼の絵の、一見無機質で無表情の画面の下には、怒りや生への希求が今にも吹き出しそうに沸騰していると感じる。
そのなつかしさに触れて、僕は底から出口の方を見るように、また立ち上がることができる。
それでは、皆さまに今夜も安寧が訪れますように。
DNA
「SEBASTIAN X」というバンドがある。
2015年の4月に活動中止しているのだが、僕はその活動中止のニュースを聞いた後に聞き出して好きになったのだ。それまでは、名前だけ知っているバンドだった。
で、その時、バンド活動休止の報を受けて初めて聞いたのがこれだ。
マジで後悔した。こんなにいいと思ってなかった。
ベースとドラムに対してボーカルが伸びやかに映える。かと思えばボーカルは時にキーボードと重なって、別の楽器のようにも聞こえる。音の組み合わせがいい。すごく心地良い。
そして言葉遣いがいい。女性らしい自己の表現も感じさせつつ、とても大らかである。JUDY AND MARYのような少女らしさも、椎名林檎のような強さや鋭さも備えながら、最終的に大らかさが包み込んでいるのがとてもおもしろい。
さらに歌い方もいい。同じメロディでも歌い方を微妙に変えて、記憶に残るようになっている。聞きながら歌い方を真似すると(中年男性だけど)大変気持ちいい。伸びやかなボーカルは、たまに和田アキ子に聞こえるほどである(褒めてます)。
問題は、なぜそれほど売れなかったのかだ(余計なお世話である)。
僕はバンドが活動していた時に注目していたわけではないので、その理由は推測することしかできない。実際はそこそこ売れていたのかもしれない。しかし、youtubeの視聴回数などを見ると、爆発的にヒットしたわけではなさそうだ。
なんでだろう。「DNA」なんて、しかるべきCMに起用されたら売れそうなのに。ポカリとか。
最初に思いついたのは、スマートに聞こえないから。
SEKAI NO OWARIはスマートである。EDM、かっこよくて気持ちいよね。若干内にこもったような感じがするけれど、SEKAI NO OWARIには地面から5センチだけ浮いて歩いているようなかっこよさがある。瞳孔開きっぱなしでファンタジーの世界に行っちゃうような、飛び抜けたトラベル性能を持っている。
対してSEBASTIAN Xは、土着のものである。
主にボーカルの永原真夏の資質によるところが大きいのだろう。たとえるなら地母神的な、祭りのリズムのような、暗くて禍々しく、しかし華やかで大らかな、みぞおちにグッと来る何かを感じる。たぶんその自覚があるから「スーダラ節」をカヴァーしたのだと思う。
そうするとSEBASTIAN Xは、ギターレスでキーボードがメロディの一翼を担うポップなサウンドでありながら、根底がポップでないという特性を持っているのだと気づく。そしてその特性こそが、僕がすごくおもしろいと感じた部分なのだろう。
しかしそれは、今の時代が求めているものとは少し違ったのかもしれない。
ちなみに僕が好んで聞いてきた音楽は、主に日本のロックと中島みゆきである。世代的には、ミッシェルとかブランキーとかイエローモンキーが当たり前のように売れていたころが20代。バンプとかラッドを聞いて、「こんなに若いのにとんでもない才能が出てきましたなあ」と驚いた世代である。あるのかその世代。
だから、そんな僕の琴線に触れるということは、SEBASTIAN Xの活躍は今ではなかったのかもしれないと、うっすら思う。
数日前、夜中に部屋の灯りを消して、「DNA」「サディスティック・カシオペア」「GO BACK TO MONSTER」を聞いた。
やっぱりだ。
SEBASTIAN Xには暗闇が似合う。
そしてもう一度、なぜこれが売れなかったのか、不思議に思うのである。
とりわけ「DNA」は、ポップと土着的生命力とのせめぎあいが昇華して、一段上の音楽になっている。
間違いない。惜しい。
いや、解散したわけではないけどさ。
言葉と世界は、人の数だけ存在する
とても残念だ。
どういう番組だったかというと、日本の料理を外国の料理人に作ってもらうという番組だ。例えば「かつ丼」とか「あんまん」とか「福神漬」とか、その料理の名前と3つのヒントだけを提示し、料理を想像してもらって、作ってもらう。それ以外のヒントは一切なし。
例えば、今回のお題は「かきの種」だったのだが、料理人に提示されるのは、
- 「かきの種」とは〈柿の種〉という意味であるが果物の柿は使わない
- お米を使ったおやつ
- ピリっと辛い
の3つだけ。詳しくは再放送を見てほしい(放り投げる姿勢)。
この番組が素晴らしかったのは、(僕の想像だけれど)制作側が料理人に「正解の料理を作ってくれ」と言わなかったことだと思う。
「正解の料理を作ったらえらい」という発想の番組だったら、きっとあの魅力は出てこないだろう。今回の例に当てはめれば、実際の「かきの種」に近いものを作って競う、では、この番組に特別なあの感情は生まれてこないはずだ。
そうではなくて、(これも僕の想像だが)「このヒントからイメージを膨らませて、あなたたちのやり方で料理を作ってみてください」という提示をすることで、日本人の思いもつかないような調理法であったり、素材であったり、異文化の発想を知ることができる。それがたまらなく面白かったのだ。
今回で言えば、バングラデシュのシェフが、米粉を使った皮で野菜や魚を調理したものを包み、蒸したり焼いたりしてその料理はできた。それはつまり餃子に近いものだったのだけれど、その料理を前にシェフが「柿の種みたいだろう?」なんて言うとき、僕らは餃子の形が言われてみれば種に似ていることを「発見」して驚く。
僕たちが考えもしなかっただけで、柿の種は餃子の形ではないか、と考えた人がいる。そしてその考えはきっと、その人たちの文化から生まれたものである。
ああ、これって外国に行ったときに感じるやつだ。
コミュニケーションの面白さって、こういうことなのだ。意味的には同じ言葉を介しているはずなのだけれど、日本人とバングラデシュ人では、そこから湧いてくるイメージの世界が異なっている。そして、違うはずのイメージから、時に全く新しい表現が生まれたり、また逆に似たような表現に行き着いたりする。そんな当たり前のことの「発見」。
この番組を見ていて、時に感動すら覚えるのは、そういったコミュニケーションの本質のようなものに触れているからだろう。
よく考えれば、国に限ったことではない。私と、あなたでも同じことは起こっている。
同じ言葉を使っていても、私とあなたでは、その言葉の持つ広がりは驚くほど違っていて、その行き着く結果としての表現が人によって違い、また似ていたりする。
そんなコミュニケーションの本質のようなものを、とても面白く見せてくれた番組だった。大好きでした。ありがとう。
三四郎の構造について
THE MANZAIで三四郎を見た。
彼らの漫才はそれまで見たことがなくて、1,2回アメトーーークか何かで見ただけの印象しかなかったのだが、漫才を2回見ておもしろいなと思ったので書く。
まずは、ボケとツッコミが逆だと思っていたので意外だった。
三四郎というコンビについては、ほぼ小宮のトークだけが頭に残っていたので、なんかこの嫌な感じしたやつがボケなんだろうと思っていた。とろサーモンみたいに。失礼(失礼なのかどうなのか)。
で、初めて見た漫才は、小宮のぎこちなさが笑いを誘う作りでありながら、しっかりした技術と知性を感じるものだった。
まず驚いたのは、THE MANZAIプレマスターズ(だっけ、本番に出られる3組を決める事前番組)も、THE MANZAI本体も同じネタだったのだけれど、小宮のぎこちなさが同じであるということだ。
ふつう、あのぎこちなさは作れない。
ゆえに、彼の素のものであると考えられる。
だとすると、なかなか「同じぎこちなさ」を再現するのは難しいはずだ。
これがきれいな演技であれば、なぞることはできるかもしれない。
しかし、彼は相当ぎこちないわけなので、その動きづらい身体、しゃべりづらい滑舌を「同じように繰り返す」ことができるというのは、相当すごいことなのではないか。
きっと、めちゃくちゃ練習して洗練した結果なのだと思う。
でなければ、あのぎこちなさで笑いを何度も取ることはできない。中途半端では「ぎこちない素の動きで、たまに笑いを誘う」か、「ぎこちなくなくなって笑いを誘えない」かどっちかになるはずである。
それから、小宮のセリフに特徴的なものがいくつかあるのがうまいと思った。
「著しく売れかけている三四郎です」
「いじり急ぐな!」
「コンビだから笑いのツボが同じはずだろ。だから組んだんだろ。そうであれ!」
(すべてうろ覚えであるが)これらのセリフは、一定の知性を感じるものばかりである。言葉を知らないとこの表現は出てこない。だからきっと、この台本を書いたやつはそれなりに頭がいいはずだ。
ここでポイントになるのは、知性はお笑いにわりと必要だが、知性が出すぎると嫌味になってしまうというところだ。
三四郎における小宮のセリフは、知性を感じさせながらしかし、彼自身のぎこちなさがそれを上回ることによって観客にそれを気づかせないようになっている。
たとえば、ボケの彼(ここに至って、名前を知らなかった)があの明朗な声で同じことを言ったら、スッと流れてしまうだろう。それはもったいない。
そうではなく、小宮にぎこちなく言わせて、観客の心に引っかかりを持たせることで印象に残るようになっているのだ。そして、その印象を小宮のぎこちなさが上回ることで、それはさらにおもしろくなっているのだ。
パッと見は危なっかしい漫才でありながら、たぶんこういった工夫と推敲、練習に支えられているのではないかと感じたんだけど、本当のところはどうなんだろう。
って、書いてから思ったけど、この2本同じ録画の可能性があるな。じゃあ半ば撤回だ(おい)