批評(ex.goma油)

批評(ex.goma油)

趣味の批評をしてみたいと思いました。

議論とは何か:1

議論って何だろうかと思うことがあった。

誰かと話し合うということ。
例えば会議だったり、裁判だったり、隣の席の奴とのちょっとした折衝だったり、人と人が議論するときに、その底のところにあるものは何だろうかと。


まず議論をすると言うことは、何か目的があるのだ。
目的がなさそうな議論もあるが、それは「なさそう」なだけであって、実際にはほぼ全ての議論に目的はある。

考えてみると、議論の目的には2種類あるのだと思う。
それは「明示的な目的」と「隠された目的」だ。

もしくは「共通の目的」と「個人の目的」と言い換えてもほぼ同じ意味かもしれない。


議論の俎上に上がる「明示的な目的」は、例えば会社の会議で言えば「議題」「アジェンダ」のようなもの。

例えばシステム開発会社の会議であれば、クライアントの要望を基に機能の「仕様やロジックを決める」という題目が、この「明示的な目的」に当たる。

参加している全員が共通の「目的」を念頭に置いていることが、その会議のスムーズな進行に結びつく。

と、一般的には思われているようで、「明示的な目的」に沿った議論をすることが望まれる傾向にあると思う。


では「隠された目的」とは何か。
必ずしも「明示的な目的」に沿うとは限らない、「個人的な目的」のことである。

つまり議論に参加した各人がその議論を通じて「本当に達成したいこと」であり、それは「明示的な目的」と一致することもあれば(ほとんどないけど)1人で複数抱えている場合もあるだろう。

会社の会議で考えるならば、「はやく終わらせて飯を食いたい」であったり、「かっこいい発言をしてあの娘に気に入られたい」であったり、
「あいつが気に食わないからとりあえず食って掛かり、結果おれの方が上だと認めさせたい」であったりするようなもの。

簡単に言えば個人の「感情」だ。


で、本稿はその「感情」こそが議論を考える上で最も大切なことではないか。
と、思いついたところから始まる。


あの後味の悪い会議や、交渉という名の口喧嘩がなぜ起こるのか。

「冷静な議論」をしようとした僕たちが、口先滑らかに余計な議論を繰り返し、失敗してきたのはなぜか。

それは議論の本質が「論理性(≒客観性)」ではなく「感情」であるということを見過ごしてきたからではないか。


次回からそれを掘り下げようと思う。