アンチドーピングって何か
ランス・アームストロング(※1)が、薬物使用を認めるかもしれないという。
いやいや認めるも何も既にタイトルは剥奪されているし失うものはないわけで、そうか、だからいっそ認めてしまったほうが若干印象が良くなるということか。
などと考えていたんだが、じゃあなぜドーピングはいけないとされているのか、
別にいけなくはないのではないか、みたいな前からぼんやり思っていたことを言葉にしようという話。
(※1)
ツール・ド・フランス(※2)を7連覇もした、つまり7年連続で優勝したすごい人。
ただし現在はドーピングの疑いでその7連覇は剥奪されている。
(※2)
僕は子供のころツール・ド・フランスが大好きで、強烈に印象に残っているのが、散弾銃の事故から復帰して優勝した時のグレッグ・レモン。
僕は中学生で、テレビでたまたま見たんだろうと思うけれど、黄色いマイヨ・ジョーヌを着たレモンが最終ステージのタイムトライアルでゴールに向かうシーンの、向こうに見える凱旋門とたったひとりで自転車を走らせる姿、そのジャージの黄色さがレモンという名前と相まって(※3)ものすごい感動を覚えたのだ。
だが調べてみたらその年のツール、レモンは最終ステージで逆転優勝したらしく、ということは最終ステージで黄色いジャージを着て走ってはいなかったのだな。
あれはレモンじゃないのだな。
記憶ってあいまいだな。
(※3)
その時「レモン」って名前は果物のことだと思っていたのだ。
さて本題に戻ろう。
まず、JOCのアンチドーピングのページに書いてある、「ドーピングがダメな理由」は以下の3点。
1) スポーツの基本理念、スポーツ精神に反する
2) 選手の健康に有害である
3) 社会悪である
このうち「3) 社会悪である」はちょっと性質が違う。
悪という言い方からして、麻薬や覚せい剤のような、いわゆる「ドラッグは良くない」という話だ。
ドラッグの是非を考えるのは今回のテーマ(スポーツとドーピング)とは少し違って、また別の考察が必要だろうから今回は置いておく。
またいつかちゃんと考えよう。
で、一番先頭に書いてあることから考えておそらく「1) スポーツの基本理念、スポーツ精神に反する」というのが、日本では最も強い「アンチドーピングの理由」「ドーピングをしてはいけない理由」なのだと思う。
いわば、ドーピングなんて「フェアではない」ということだ。
では「フェアではない」というのはどういうことだろうか。
となりに「反則」とも書いてあるから、きっと「規則で禁止されていることをやるのはズルい」という意味だろう。
確かに「ドーピングはズルい。卑怯である」というようなことはぼんやりと思っていて、あの選手がドーピングをしたと聞くと、無意識にダーティーな印象を抱く。
たとえどんな偉業を達成したとしても、その偉業は「クスリ」によって達成したものであり、その人「本来の力」ではないと感じてしまう部分はある。
だがそれは本質ではないのではないか?
例えば「フェアではない」ことを理由とするなら、全アスリートを同じ環境で練習させ、同じものを食べさせ、同じ条件で競わせなければそもそもフェアではない。
これはとても短絡的で暴力的な言いぐさであると、もちろん思う。
だが根本的なスポーツの評価というものの意味を考えた時に、それは間違いなく相対的な評価(他の誰よりも優秀であった人が最も優秀であるとする評価の仕方)であるから、「その人がどれだけ努力したか」に加えて「その人の資質」という、いわばどうがんばっても覆せない差を認めざるを得ない。
簡単に言うと、身長180㎝の人と身長120cmの人が走り高跳びで競った場合、かなりの部分で体格の差が競技の優劣に結びつく。
こんなに単純でなくとも、他の人より少しだけ「速く走れる骨格や筋肉」を持っていれば、速く走る競技においては有利である。
つまり、スポーツはそもそも「その人がどれだけ努力したか」を測ろうとしていない。
(し、そもそも測ることができない)
最終的に「どれだけ他より優れていたか」を測るものであるということだ。
で、ここが非常に重要なことなのだが、本当にスポーツがフェアでなければいけないのならば、先に言ったように全ての競技者を同じ条件で競わせるべきであり、その結果でしか「努力」を除いた純粋なその競技者の「能力」を測ることはできない。
でもそれをしないのは、そもそもそんなこと物理的にできないからであり、それをしても別に面白くないからだ。
人間に無限の時間があり、決して衰えないのであれば最終的に誰が優れているのか決まるだろうが、人間同士が競う瞬間に全ての競技者がベストの状態であることは絶対になくて、それを経験で補ったりすることで、「その後も二度と訪れないかけがえのないその時」「それまでの人生を全てかけた総合力で」「最も優れているのは誰か」を決めるわけだ。
つまりスポーツはそもそも「完全なフェア」ではなく、そしてだからこそ尊いわけだ。
なるほど、それがスポーツの本質か。
だからフェアにやろうよということなんだな。
そんな大事な一瞬を、薬物みたいな安易な手段で乗り越えようとするなよと。
納得した。
だがしかし、それでも疑問は残る。
それは「薬物と練習環境の違いはどこにあるのか」というもの。
両者は全然違うものに見えるけれど、でも「スポーツの成績を良くするために効果のあるもの」という意味では同じだ。
例えば、とても高価なトレーニング施設がある国の選手と、そんなもの無くてただ野原を走るしかない国の選手がいる。
これはフェアなのか。
(ここでは経済格差の話をしたいのではなく、それがフェアなのかどうかという考え方の話ですのでご注意を)
例えばそのトレーニング施設でトレーニングを行えば、野原でただ走るより2割ほど効率良く心肺機能が強くなり、他の能力には同等の効果があるとした場合。
どう考えたってその施設でトレーニングした方が有利だ。
もう少し突き詰めると、ある裕福な国では「タンパク質の吸収を良くするサプリメント」が0.1回分程度の食費(つまり安価)で手に入るが、他の国の物価では高すぎて手が届かないとする(もちろんこのサプリは身体に悪影響はない)。
このサプリメント、裕福な国のアスリートは当たり前のようにみんな摂取しているが、貧乏な国のアスリートはそんなもの買えないから摂取しないでトレーニングする。
これはフェアなのかと言われれば、本当の意味でフェアではないだろう。
でも、先に考えたようにこのアンフェアをスポーツは許容するのだ。
全アスリートの練習環境やその他条件を全く同じにすることは不可能であり、やっても意味がないから、このアンフェアは計算に入れずに、この程度のアンフェアが存在していても「仕方ない」としているわけである。
まあそりゃそうだ。
そんな厳密にはできないからな。
いやいや、ちょっと待てよ。
じゃあさっきの練習施設やサプリメントと、
ドーピングに使用される薬物の違いはどこにあるんだ。
どっちも「手に入れられる人だけが使える」「スポーツに有利になるもの」じゃないか。
違いは「2) 選手の健康に有害である」かどうかだけ。
やっとたどり着いた。
そうそう、これが言いたかったんだ。
結局ドーピングに対する「嫌な感じ」っていうのは、それがフェアかフェアじゃないかに関わらず、身体を「自然ではない不健康な状態」にする「嫌悪感」のことなのではないか。
この考え方でいけば、サプリメントとドーピングの境界は、明確に「不健康」であるかどうか。
その後、人体に悪影響があるかどうか。
悪影響があれば、やってはいけない気がする。
悪影響がなければ、やっても良い気がする。
というとても「身体的」な理由、「身体」に関わることに対する「不安」なのではないか。
だから「ドーピング」の概念には「血液ドーピング」のような、明確に薬物を使用しないものも含まれる。
アンチドーピングの理由は、人間の身体に対する不安の発露であり、それはつまり「身体に悪影響のある行為は何か嫌な感じ」ってことなのだ。
思えばドーピングについて考えるとき、その思い出にはいつも影がある。
ステロイドの使用で心不全を起こして死んだアスリートの話。
ホルモンの投与で男性化した女性アスリートの話。
ドーピングの影響で血液がドロドロになってしまった自転車選手の話。
積み重なるドーピングのイメージは「不健康」
突き詰めれば「死」だ。
これが進めば、もっとおぞましい人体改造や、強烈な薬物が出てきてもおかしくない。
例えばわざと脚を切断して高反発の義足を付ける、というようなことも考えられる。
(ピストリウスを批判しているわけではありません)
そんなのって悲しいじゃないか。
こういうような道筋をたどって来ると、アンチドーピングの最も強く根本的な理由は、もはや「フェアでないから」ではない。
不自然な人体の状態に対する「恐怖や不安」そしてドーピングによって健康を損なってしまった人を「見たくないという心理」なのではないかと思ったんだ。