45歳になってポップンミュージックを再開した話
この歳になって、ポップンミュージックを再開した。
前回、最後に覚えているのは、サニーパークでEvansを解禁して「これ47じゃねえな」と思った時だったので(後に48に昇格)、ゆうに9年のブランクがある。
しかも順調に歳を取っている。仕事も当時とは変わったし、結婚して子どもも生まれた。心身プラス環境まで含めておっさんである。おっさんミュージックである。
さらに、やめた理由が「自律神経の異常」であり、ポップンミュージックを含めて神経が興奮するようなことをするとめまいや胸痛が襲ってくるという状態になってしまった結果、おとなしくせざるを得なかったためなので、再び手を出すことに恐怖心もあったのは事実だ。
それでもなぜ再開したのかというと、きっかけはたまたまなので特に理由はない。
たまたまゲーセンで(そもそもゲーセンに行くのも久しぶり)1クレジット入れてプレイしてみて「ああ、クソほど衰えてるなあ」と思ったのがきっかけで、徐々に、再度ハマっていった。
いや、ハマったというのは違うかもしれない。
やめる以前は一日10回もプレイしたって平気だったが、今は上記の様々な理由で多くても1日4プレイである。昔ほどの熱はない。
プレイを再開して3ヶ月ほど経ったが、プレイしない日が何日も続くこともあるし、またふっと去ってしまうことも十分に考えられる。
そしてそもそも、復帰して改めて思ったことだがポップンミュージック自体が斜陽である。いつまで続くかわかったものではない。
だから、音ゲーとともに青春を過ごした世代が、この年齢でどうプレイするのか、また、音ゲーそのものがどうなるのかなど、少し考えてみたいと思ったわけである。
(つづく)
自分の要素となったゲームの話① ~ドキドキシルバー~
気づいたらずっとゲームばかりしていた。
ファミコンから現在まで、ずっとだ。
ちゃんとしたゲーム体験はスーパーマリオブラザーズの前あたりからなので、まさにゲーム歴35周年。おめでとう、マリオと俺。
これを機に、考えてみた。
自分に影響を与えたゲームは何だろうか。
ドラクエのようなゲームは語り手もたくさんいるだろうから、今日はあまり書く人がいなさそうなゲームを上げたいと思うんだ。
夢工場ドキドキパニック 1987年 任天堂
↓当時の説明書を書き起こした素晴らしいページ
夢工場ドキドキパニック ~げーむのせつめいしょ(仮)~ (ディスクシステム編)
いわゆるスーパーマリオUSAである。
しかし初出はこちらであり、僕もこれをプレイしたのでどうしてもこれ。この80年代臭いタイトルに心ときめく。
僕の中でこのゲームはスーパーマリオではなく、アラビアンナイトっぽいテイストのアクションゲーム、『夢工場ドキドキパニック』である。
確か晴海でやっていた夢工場のイベントに行った記憶もあるが、そこで買ったのか、書き換えして手に入れたのかは良く覚えていない。
・心に残っている点
おそらく生まれて初めて、全てを遊びつくしたゲームだ。
ランプでマップの裏側に行ける(というか反転したマップが一時的に現れるというか)というアイデアがとても面白く、隠しルートやハートを探すためにランプを持って行けるあらゆる場所で裏側に行って探索した。
全キャラで全ステージをクリアした。
何回もトライして、謎を解いていく快感があった。
キャラクターの性能が違うため、苦手な個所をどう乗り越えるかで苦心した。
マップが全部埋まった時の達成感は、おそらく死ぬまで忘れないだろう。
シルバー事件 1999年 グラスホッパー・マニファクチュア
↓これは現在発売されているリマスター版のHP
thesilvercase.com
プレイしたのはPS版。
まず目に付くのは、アドベンチャーゲームでありながら自由なテキストエリアである。
たいてい画面の下半分に固定されていた従来のテキストエリアをやめ、縦横自由、サイズも自由、レイヤーも自在に出てくるテキストがとてもスタイリッシュ。
プレイステーションは2Dも板ポリゴンに描画する仕組みだったはずなので、それで思いついたんだろう。
まずこの点だけで、何か新しいものを作ろうとしたパッションがギザギザに伝わってくる。
それだけではない。
3D空間に置かれた点を移動する独特な移動システムや、進むにつれてわけがわからなくなっていく破天荒なシナリオも相まって、強烈なインパクトを残したゲームである。
・心に残っている点
まずは上にも書いたシナリオだ。
初めは近未来の警察署を舞台としたクライムノベルなんだけど、次第にキャラクターの設定が意外な方向へ上書きされていく。
さらに進むと、さらにおかしな方向へ何重にも上書きされていく。
ゲームが終わるころには、最初と同じ話とは思えないほどに違う設定になっている。
しかも、その意外な展開を作ることへの面白さのパワーが、シナリオの統制を取ったり辻褄を合わせようというチカラを大きく上回っており、壊れそうになるたびさらに大きな爆発を起こして気にならなくするという、ビッグバンスパイラル的な力ずくの展開を何度も体験できる(そんなシナリオのぶっ壊れ方は、清涼院流水のJDCシリーズに近いかもしれない)。
また、場面転換の際に入る「パン・ポン・ピン・ポーン」というSEが素晴らしい。音色、テンポ、音程、そして間の取り方が本当に最高。
場面転換するのか、しないのか。その一瞬に息を飲む。
この人物はこの後まだしゃべるのか?
この展開はまだ続くのか?
先が読めないシナリオだけに、このSEが鳴るのをどこかで待ち望み、またどこかで鳴らないでほしいとも思っている。
ゲーム中おそらく百回以上繰り返されるこのSE。全ての個所で適切なタイミングの調整がされたかのような、シンプルにして最高の効果を生み出している。
続く)
それぞれちがうというはなし
こんな記事を見かけた。
日本でも、今年の一年生はキャンパスに一度も行くことなく夏休みに入った、などというニュースを見た。
緊急事態宣言下の活動自粛や、現在の行動指針についても、様々な意見が入ってきますよね。
およそ人間にとって、他の人間とのコミュニケーションは欠かせないものであり、何とかこの状況下でもコミュニケーションを取りたい。
単純に家にいるのは耐えられない。
誰ともしゃべらない日が苦痛。
などなど。
で、気づいたんですが、僕は全く大丈夫なんですよね。
ASDなので、もともと飲み会は苦手だし、人との距離感がはかれないので、面と向かって話すの苦手だし。
できれば休日はひとりで誰とも話さず過ごしたいし、ゲームですら可能な限りマルチではなくソロで遊ぶし。
ストレングスファインダー2.0で一番の項目は「内省」で、周囲の人に「自分一人で部屋にこもる時間が自分にとって何よりも大切だとわかってもらうべき!」みたいなこと書いてあってまさにその通りだし。
だから、むしろ自粛中の方が、楽でよかったなと思っているわけだ。
これはもちろん、どちらが良いとか、優れているとかいう話ではない。
シンプルに、世界にはいろいろな人がいるという事実だ。
そしてその「いろいろいる」には、外見でわかるようなことだけでなく、内面についても千差万別だということなのだ。
今回、僕はそれを学んだ。
いや、正確には、それは知っていたけど、立場が逆転したことでまた違った見方ができるようになったということだ。
これまでは、どちらかと言うと「コミュニケーションが好きな人の優位な社会」だったと思う。
僕が生きづらいと感じていたのだから、これはおそらくほぼそうなんだろう。
そして、その中で生きづらさを感じつつも、こちらとしては社会を「そういうもの」として捉え、ある種あきらめとともに、なるべく波風を立てないような工夫をして生きてきた。
時には、社会の他の人に自分の特性を説明し、わかってもらうことで自分が楽なようにできるというやり方も取った。
その根底にあるのは、やはり「人はそれぞれ違う」という信念のようなものだった。
「こちら」と「そちら」は違う、その差を無理して埋めるのではなく、差を認識し尊重することで、むしろ自分を大事にするというような心の持ちよう。
それでここまで何とか生き延びてきたんだから、これに関しては自分を大いにほめたいね。
で、それが今回の自粛期間(や、ロックダウン政策など)によってコミュニケーションの断裂が起きたとき、僕のような人の方が生きやすい社会が、一時的に出現したのだ。
もっと端的に言うと、適応と非適応が、逆転したのだ。
これはかなり衝撃的だった。
僕の方が生きやすく、今までコミュニケーションを良くしていた人たちの方が、生きづらくなったからだ。
以前から、障害は環境がそれを障害たらめているだけで、環境が変わればそれは障害でなくなることがあるんだ。と、頭ではわかっていたけれど、それが実際に起きることだってあるんだ。
それはこれからの人生に勇気を持てる事実だった。
そして、すぐさま、今の環境下に適応できず困っている人の気持ちもわかった。今まで僕はそう感じていたからだ。
「いろいろな人がいる」ということは、本当にそのままの意味で、善悪や優劣など存在しない。
だから、いま困っている人には助けを。
自分が困っていたら、声をあげよう。
そんな社会ができたらいいよね。
日本語ロックの夜、か、夜の日本語ロック①
今日、街を歩いていたら突然【15の夜】のサビが降ってきた。
みんなもあるはずだ。
盗んだバイクで走り出す
のところ、頭の中で尾崎が歌いだす。
間違いなくみんなにも経験あるはずだ。
なぜなのか。
なぜ【15の夜】はこれほど再生のクオリティが高いのか。
何回も通して聞いたわけでもなく、少し時代がずれているためリアルタイムでは聞いていない、主にカラオケで誰かが歌っていたのを聞いた方が多いのではないかという印象の、しかし間違いなく名曲と言いきれる、名曲。
タイトルに用いられ、またサビにも3回登場する「夜」の空気の再現性。
「夜」は孤独を感じさせ、ロックと相性が良いのは間違いないが、それにしてもこの尾崎の「夜」は、それ知ってる度が高い。
ティーンのころに、何も持たずに夜の道を歩くあの空気が、一瞬で蘇ってくる。感覚ごと再生される精度の高い歌の記憶。これは何なんだ。
尾崎豊は、かっこいい。
顔もすごくいい。生き方も非常にロック。
少年時代から、常に脇に追いやられている(という感覚を生きている)感性とそのまなざしは、正しくロックの角度である。
そしてあの声だ。
ほんの少しフラットにかかった、少年性を表現するのにぴったりだったあの声。高音でやや力んで声を張り上げるあの感じ。まさにロックを歌うためのような声だった。
わかる。
それは良くわかる。
しかし「盗んだバイクで走り出す」は、もっともっと、ものすごく消費されているはずなのだ。
お笑い芸人がこの一節を漫才に盛り込んだのを、聞いたことがある。芸人でなくても、何となく子供っぽさや無垢な情熱を表現したい時、大人の側から揶揄するようなトーンで、「盗んだバイクで走り出す」と歌われたのを、聞いたことがある。前述のように、カラオケでも何度も何度も聞いた。
また、だいたひかるは初期のネタの中で唐突に、「ぬーすんだばーいくはでーまえよおー」と歌った。これは本当に天才的なフレーズだと思った。
そんな風に、僕は人生の中でこの「盗んだバイクで走り出す」を、消費され尽くすぐらいいろんなやり方、場面、シチュエーションで聞いているはずなのだ。
それでもなお、尾崎の歌は僕の脳裏で正確にあの夜を歌ってくれる。
本当にすごい。
消費されない強度とはこういうことで、その中でもトップクラスに強いんじゃないだろうか。
そんな風に思った45の夜。
(45歳ではないが)
柔らかい鉄と卵(渡辺麻友について)
渡辺麻友が芸能界引退だそうである。
僕にとって最初に好きになったAKBのメンバーはおそらく渡辺麻友だと思う。そしてその後も色々なメンバーを見て自分の推しは入れ替わっていくのだが、それでも総選挙で1位を取った時や、昨年の朝ドラで話題になった時などは、自分のことのように喜んだものだ。
「渡辺麻友には無二の才能がある」と、今でも確信している。
そもそもAKB48は、一辺倒になりがちなアイドル像を「数を増やす」というやり方で、力ずくで更新することに成功した。いろいろなアイドルがいていいし、その楽しみかたもいろいろあっていい。そんな多様化の時代にとても良くなじむ、新しい発見だった。
その中でも渡辺麻友は、一見、王道のアイドルだった。
アイドルとしての振る舞いや見た目、佇まいは完璧。
しかし時折何かが見える。
腐女子としての渡辺麻友がじわりと出てくる。なんだかルサンチマンを感じさせるようなものや、情動的なものがSNSを通してちらりと見えたりする。
「荒ぶる麻友選手」は、一時ファンの見どころでもあったと思う。特にぐぐたすとか755全盛期。
しかし、それでいて、アイドルとしては完璧。
でもって、マジすか学園のネズミみたいな役もめちゃくちゃかっこいい。
声の出し方もとてもうまいので、声優もできる。
表に出てくる渡辺麻友像の完璧さと、個人としての渡辺麻友の孤独感が、どちらもすごい純度で存在していて、そして最終的にはアイドル完全体みたいなことになる。
しかもポイントは、どちらも特に嘘ではなさそうなところだ。無理して何かを作っているような感じは一切しない。アイドル性と自我の両方を、高い水準で保っていた(ように見えていた)。そこが渡辺麻友のすごさだと思う。
20年ぐらい前、そのころ付き合っていた彼女に言われたことがある。
いくら自分を飾ろうとしたり、偽っても無駄。
本質的なものは必ず他人から見えているのだと。
本当のところはわからない。
けれど、完璧なアイドルと少しおもしろい普通の渡辺麻友を同時に見せながら、しかし最終的には完璧なアイドルである、という不思議な感じをそのまま見せることができたのは、渡辺麻友の持つ力強さであり、技術の高さであり、現代アイドルの到達点の1つだと僕は確信している。
ともあれ、健康がすぐれないことが今回の理由であるということなので、くれぐれもゆっくり、大事にしてほしい。
Sigrid Don't Kill My Vibe
アルバムに入っているアレンジもエモーショナルでいいが、やはりアコースティックの方が、声が際立つので好きだ。
苛立ったような表情や時々がなるヴォーカルは、社会に埋もれる人間の原生的な強さを感じさせる。特に最後のパートで表現される情感は感動的。
Don't kill my vibe.
Don't break my stride.
もしあと一曲
僕は、新しい刺激を受けると、しばらく疲れてしまうタイプである。
今日もうれしい反面疲れる出来事があり、やる前から疲れるとわかっているけど楽しいのは間違いないのでやってみたら、案の定メランコリーだ。
メランコリー。ゆううつ。
まあ楽しかったからいいんだけど、どうやら他の人より疲れを引きずるので、あと数日は疲れているだろうと思う。
そんな時、ある曲が頭の中で再生された。
僕の脳内再生リストでは定番の曲で、発表当時から現在まで、何千回も鳴っている。
ベイビーの後ろで一歩引いていた小宮山雄飛が、一転前に出て、それまでのホフディランのイメージを変えようとした時期があった。その時作られた一連の楽曲の中で、僕が一番好きなのが、この『欲望』という曲だ。
そして僕は今日、突然、人生の一曲を選ぶならこの曲だと思ったわけなのだ。
何度も聞きかえす名曲はいくらでもある。
かけがえのない人生の1ページになっている曲も、たくさんある。
たぶんそんな曲たちを集めたら、何枚もCDが作れるだろう。
でももし、残りの人生であと一曲しか聞けないとしたら?
僕は迷わずこの曲を選ぶだろう。
とにかくまずは詞が好き。聞き返すたびに勝手に深みを帯びる、孤独で普遍的、エモーショナルでメランコリックな詞。
曲のテンポ感もいい。雄飛の伸びやかな声質にとても合っている。
また、PVも素晴らしい。水泳の授業の妙な気だるさが曲にぴったりである。
でも、この曲が僕にとって特別な理由は何だろうかと考えてみると、良くわからない。
良くわからないけれど、間違いなく僕の人生の一曲であると言い切れる。
そんな曲がみんなにもあるのだろう。
共有できない自分の唯一性、その背後にある生の一回性。
みんながそんな一曲を持っていると想像すると、存在に直接触れるような、裏返された奇妙な実感を得る。
そんな夜だ。
瀧と田代のはなしなど
ピエール瀧が逮捕されてしばらく経つ。
僕は電気グルーヴの『VOXXX』というアルバムが大好きで仕方がないのだ。
『VOXXX』は、砂原良徳が抜けて2人体制に戻った電気が放った、薔薇とウンコが一緒になったような、強烈な振れ幅で強烈な匂いを放ちまくる傑作だ。
(ところで『シャングリラ』という名前の名曲を作り、3人組が同級生の2人に戻るってところ、チャットモンチーも同じね)
このアルバムの素晴らしいところは、圧倒的な芸術的光量である。芸術とは、その人(たち)にしか見えない世界を、他の人たちに間接的に見せる「光」のことだ。
これは何も「特別なアーティストは特別な世界を見ることができる」という意味ではない。誰でもそうであるように、自分が感じている世界は他の人には絶対に直接感じることはできない。その前提から、その自分の感じている世界を「照らして間接的に他の人にも伝える」という行為こそが芸術行為であり、その意味で「誰でも平等に芸術行為をなすことができる」という意味である。
そして、その光の強烈さにおいて『VOXXX』は圧倒的なのだ。
世界で一番明るい太陽が降り注ぐ場所で、過剰な量のストロボを焚きまくって、どんな小さな違いでさえも印画紙に最高の解像度で焼き付けたい。そんな気狂いすれすれの強い意志を感じる。
だから僕はこのアルバムが大好きだ。
で、ここからはドラッグの話に入る。
僕はドラッグ類はやったことはないが、精神科でもらう薬はものすごい量飲んでいる。以前は酒もタバコも欠かせないような状態だったが、しばらく精神薬と一緒に飲んでいたら大変なことになったので、酒とタバコの方をやめた。
酒もタバコも、やめてから10年弱は経っているが、未だにときどき夢に見る。
夢で吸うタバコがまたうまいんだ。「あ、おれタバコ吸っちゃってるなあ」って気付くんだけど、夢のタバコは本当にうまいから、罪悪感を感じつつも「しょうがねえな」と吸い続ける。
夢から覚めると、吸っていたタバコが夢だったことがわかってほっとするんだけど、同時にあのタバコのうまさも残っていて、「タバコってなんてうまいんだろう」とも思う。
脳には可塑性という性質があって、一度変化してしまったら、元には戻らないと言われている。僕が今でも夢でタバコを「うまい」と感じるのは、その部分の脳がもうそうなってしまっているからだと納得している。酒も同じだ。
また、精神科の薬も同じようなものだと思う。睡眠薬は典型的で、脳が睡眠薬に慣れてしまっているので、飲まないと眠れない。眠くなるけど眠れなくて、ウトウトしては目が覚めるの繰り返し。だけど飲むとすぐ、眠れる。
睡眠薬以外の薬も、飲まないと調子が悪くなるので飲んでいるが、それは果たして薬が効いているのか、それとも薬が切れた離脱症状をおさめるために飲んでいるのか、わからなくなることもある。
日本で合法的に手に入る酒やタバコ、治療薬でさえこのありさまである。それよりもっと気持ちが良い(らしい)ドラッグをやめることは、相当に苦しいだろうと僕は想像する。
僕個人としては、そういうわけでドラッグ類はやらないが、ドラッグ依存になってしまった人の気持ちは多少わかるゆえに、彼らを責めることはしたくない。
電気グルーヴ自体や、瀧をかばう卓球はもちろんのこと、瀧も、僕は責めない。ただドラッグ依存とその治療の苦しみから、少しでも解放される時がいつか来るのを見守りたいと思っている(もちろんドラッグを使う以外の方法で)。
そもそもなぜ、ドラッグの類は違法とされるのか。いやその前に、なぜドラッグをやってはいけないのだろうか。
僕の答えは相変わらず「やってもいい」だ。
この「やってもいい」は、社会的な善悪や道徳的な意味ではない。
個人の判断としてそれをよしとするならば、という条件付きで、やってもいいということだ。個人の判断としてそれをよしとする場合、個人の外にあるいかなる制約も意味を成さない。だって自分がいろんな意味で許可するからだ。
それを止めるものはないし、もし自分が止めるなら、それは上の条件を満たしていない。よって、自分がそれを許可するのなら、ドラッグは(のみならずどんなことであっても)やってもいい。
しかし、にも関わらず多くの人はドラッグをやらない。それは大きく「社会的な悪だから」と「自分の害になるから」という2つの理由によるものだ。そして、その理由により「自分でドラッグをやらない」という選択をしている。
これらの社会による制御と自身による制御があるので、多くの人はドラッグに手を出すことなく、依存することもなく生きている。
それでもドラッグに手を出したり、やめられない人が後を絶たないのは、その抑止力よりも、苦しみやつらさから逃れたいという気持ちが勝るからだと思う。ドラッグに手を出すことで生きていけるのなら、抑止力なんてないに等しい。
つまり、それだけその人は生きたがっている。
そんなことを書いていたら、田代まさしがバリバラに出るというニュースを見かけたので、録画することにした。
何年か前にもダルクで働く彼をテレビで見て気になっていたので、今回も見ることにしたのだ。
テレビのスタジオで久しぶりに見る彼は、正直、結構つらそうだった。本当のところはわからない。しかし、察するにものすごい葛藤と躊躇の末に出ることにしたのだろう。
自分でも、昔の自分に戻れないことは良くわかっている。テレビに出る恐怖もかなりのものだったろう。昔のようにおどけるマーシーは、しかし全く昔のようではなく、何かを(おそらく依存への諦めとか恐怖とか周囲の視線とか期待とか)克服しようとする努力で悲しく映るほどだった。
だからと言って彼を否定したいわけではなくって、僕はその、葛藤や格闘を見せながら、生きていこうとする彼の姿に拍手を送りたいとすら思っている。
つらいだろうと思う。
そして、そんな人が世界にはたくさんいると思う。
どうしようもない孤独に押しつぶされそうになる夜、星空を見上げてみるといい。同じ星を見つめる者は、他にも必ずいるんだ。必ず。